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闘牛

ボロいと言うには少し物足りない、でも明らかに貧乏人が住むアパートに私たち家族は住んでいた。L字型のベランダがついた、2階の角部屋が私たちの家だった。その細長いベランダに西日が落ちる頃、私は帰宅した。

ベランダには、ここ最近の私の悩みの種である大型の動物が変わらず鎮座していた。私は心の中だけで深いため息をついた。私たちのアパートの大家は、大変非常識な人で、数か月に私たちのL字のベランダの一辺にサラブレッドを置いていった。どうやって運んだのか分からないが、きっと私たちが留守の間にクレーンで釣り上げたのに違いない。最初、私と妹と母(それが私たちの世帯の構成員の全てである)は大変戸惑ったが、馬とは割合と上手くやっていた。何より馬は大人しいし、その滑らかに輝く真鍮色の躯体は惚れ惚れするような美しさで、そのような高級品を我が家に迎えることは誇らしくもあった。ところが、破天荒な大家は先日またやって来て、今度は雄の牛を、L字のサラブレッドがいない方の辺に運び込んだ。雄牛は、牧場で穏やかに草を喰んでいるようなのではない。間違いなく闘牛の牛だ。今度も、私たち貧乏人がせっせと働きに出ている間に作業が行われた。大家からの説明は何もなかった。おかげで私たちは、鼻息荒い雄牛がいつガラスを破って私たちの居住空間に飛び込んでくるかと怯えながら日々を過ごすことになった。そのためか、最近母も妹もあまり家に寄り付かなくなったようだ。今も、家の中に家族は誰もいなかった。

サラブレッドと闘牛の牛は、お互いに顔を見合わせるような向きで、L字のベランダのそれぞれの辺に窮屈そうに収まっている。方向転換をすることも、前進することもできないその様子は、狭いボロアパートの住人である私から見ても不憫であった。

今、部屋の中には7,8人のお客さんたちがいた。彼らは、家主のいない2DKでお茶を飲みながら談笑していた。リビングには、小さな女の子までいて、私はとても嫌な予感がした。この人たちには、ベランダで鼻息を荒くしている雄牛が見えないのだろうか。こんなにたくさんの人間が集まったら、血気盛んな雄牛を刺激してしまうのではないか。私は無意識化で最悪の事態を察知していた。

そもそもこの人たちは誰で、何のために集まったのだろう。私は自分も招かれた客人の1人みたいな顔をしながら、そっと自分の部屋へ入った。この部屋は家の中で最も雄牛から遠く、そしてサラブレッドに近い部屋だった。視界から雄牛が消えたことで、私の精神は一定の落ち着きを得た。隣には悠然と佇む高貴な生き物がいる。ここにいれば安全だ。雄牛は存在しないものとなって、私の認知能力の外に消えていった。それでも、念には念を入れて、雄牛がついにガラスを突き破って隣の部屋に押し入る場面を想像する。雄牛はガラスを破って室内に突入した後、そのまま真っ直ぐ猪突猛進して反対の壁に突き刺さって止まる。愚直な雄牛はきっと真っ直ぐにしか進めないだろう。大丈夫、この部屋にいれば逃げ切れる。

その時私には、この部屋の誰かが必ず雄牛に轢かれる運命にあることが分かっていた。そしてその人物はこの部屋で最も弱い存在である、あの幼女でしかあり得ないことを。間も無く、ガラスが割れる音に続いてダイニングテーブルと床が擦れる音、そして成人女性の悲鳴が響き渡った。私と何人かの見知らぬ客人は、私の部屋で息を潜めた。まるで石になったように、人類の歴史にまた一つ凄惨な悲劇が刻まれるのを、ただ黙って見守っていた。

間も無くして、完全な静寂が訪れた。暴れて満足した雄牛は大人しく元のベランダに帰っていった。リビングには血だらけになった我が子を抱える30代くらいの父親がいた。周りの客人も大小の怪我を負いつつ、最も激しく損傷を受けた親子を遠巻きに見つめていた。私は責任が生じるのを感じた。かの父親に、傷ついた我が子を抱えながら元凶たる大家と戦うことなどさせてはいけない。私は正義感に燃えていた。例え大家が勝手に放置した雄牛であろうと、それを野放しにし、客人を安全な場所に退避させなかったのは他ならぬ私であったが、自分の中に罪の意識は認めなかった。ことは起こるべくして起こったのである。

私は至急管理人に連絡を取り、大家と被害者との会見を設定した。これまで数ヶ月に渡って大家の横暴に黙って耐えて来た小市民とは思えない行動力だった。初めて対面した大家は、想像した通りの非道でやくざな輩であった。私は果敢にも男の胸ぐらを掴み、被害者の気持ちを高らかに代弁した。「謝れ!もうあの子は帰ってこない!謝れ!この可哀想な父親に!謝れ!お前が蔑ろにした全ての者たちに!」

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