母娘
その夜は、飲みに出かけた後、まだ少し遊び足りなくて、近くのクラブへと寄ってみることにした。お店の扉の前に近づくと、ダンスミュージックの音が漏れて聞こえてくる。どうやら営業しているらしい。
「あ、リンくん」
扉を開けると、バーカウンターに入っている店員の女性が声をかけてくれた。彼女とは友人で、以前に一度占ったこともある。そのときの彼女は、いつもよりどこか疲れていて、少しだけ誰かに寄りかかりたいと思っているような細い声をしていた。
「あのね、私、リンくんに話したいことがあって。後でちょっといいかな?」
「あぁ、もちろん」
そう答えて、僕は彼女にお酒を注文した。カウンターチェアに座って、しばらく一人でお酒を飲んでいると、彼女がカウンターの奥から出てきて、僕の隣の椅子に座った。
「あのね、私、お母さんが死んじゃったんだ。私、どうしてもお母さんに聞きたいことがあって。リンくん、そういうのって、できるかな?」
「できるよ」
僕の口が勝手にそう答えていた。お酒を一口飲んでから、彼女に尋ねた。
「お母さんにどんなことが聞きたいの?」
「私がお母さんの人生にとってどんな娘だったのか聞きたい」
「そっか。サッちゃんは、お母さんがサッちゃんのこと、どう思ってるって思うの?」
「私、最低の娘だった。馬鹿で、自分勝手で。いつも、たくさん、迷惑とか心配ばかりかけてた。それに、ほら、知ってるでしょ。私色々あったから」
彼女が自分自身に向けている刃物を、痛々しく感じた。
「ほんとに、そう思うの?」
「うん」
「そう、わかった。じゃあ、見てみよっか」
僕は鞄からカードを取り出して、それを切り始めた。
「ちなみに」
彼女から目を横に逸らしながら、言葉を始めた。これから聞くことは、別に大したことではない、という雰囲気を装いながら、まるで少し風が吹いただけとでも思わせるように聞く。
「サッちゃんにとって、お母さんはどんなお母さんだったの?」
精霊はここにいる。逃してはならない。だが、捕まえようとすれば、それは逃げてしまう。
「最高のお母さんだった。いつも私のことを忘れないで、ずっとずっと、見捨てないで、見守ってくれていた。私、お母さんの娘でよかった」
「そっか」
僕はその答えに安心すると、短い返事だけをして、カードを切る手を止めた。
「じゃあ、いくよ」
これは賭けだ。そのとき、自分の心の中に、何か強く抵抗しようとするものがあることを感じていた。僕はそれを振り切って、覚悟を決めると、カードを一つ裏返した。
太陽の正位置。僕は声を出して笑った。
「あはっ。最高の娘だったって」
「ほんとに?ほんとにそう言ってるの?」
彼女はぽろぽろと大粒の涙をこぼし始めた。
「ほんとだよ」
そのとき、僕にも自分の母のことが思い浮かんでいた。さっきの抵抗はこれだったのか。彼女が自分を許せていなかったように、僕もまたそうだった。母が理想としたような人間にはなれていない。しかし、それが何だというのか。そのことを持ち出しながら、自分を許さないことによって、今ここにいる母の魂から目を背けていたのは、僕の方だった。
太陽のカードには、屈託のない様子で踊る二体の妖精が描かれていた。僕は周りから彼女を少し覆い隠すようにしながら、そのカードをしばらく見つめていた。
それから、彼女のいるバーカウンターからは離れて、僕はダンスフロアの後ろの方へと移った。そこで、ゆらゆらと身体を動かしたり、他の仲間達と挨拶をしたりなどして過ごしていた。いつもと変わらない光景だった。みんな、何かを開放しようとして、ここにやって来ている。
この場所にいることにも少し疲れてきて、僕が帰ろうとする様子を見せると、彼女がまたそっと僕の隣に近づいてきた。
「さっきはありがとう」
彼女は僕にドリンクチケットを数枚手渡しながら、そう言った。
「ねえ、リンくん。あなたはスピリチュアルの人でしょう。人間の魂って死んだ後も続くのかな。またお母さんに会えるのかな」
窓の外を見ると、周囲は明るくなり始めていた。もう太陽が昇っている。
「会えるよ」
今ここにいるよ。その言葉は、なんとなく余計な気がして、口には出さなかった。
僕のしたことは正しかったのだろうか。死者の口を騙るとは、何とも無謀なことをしたものだった。それがどんなに恐ろしいことなのかはわかっている。もしその言葉に嘘があったのなら、僕は自分の命で償うことになってもおかしくない。
でも、大丈夫だ。僕はこの賭けには負けない。
彼女のお母さんは、彼女にとって最高のお母さんで、彼女はお母さんにとって最高の娘だった。
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