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自己否定をやめる

やる気が起こらない

今の人生に不満がある。あるいは、将来に不安がある。その人生を変えるには、ただ行動しかないとよく言われる。だが、そのやる気というものが起こらない。今の自分に必要な次の行動はこれだろうと思ってみたとしても、すぐに気が重たくなってしまう。

それは、とても高い壁のように感じられる。やる気が起こらないというのは、心のエネルギーが不足しているということだ。そのとき、心はどうするか。がんばらなきゃ、と自分に言い聞かせる。そうすると、心は割れて、破片が飛び散る。そして、その破片の運動をエネルギーとして利用することができる。

そのようにして、やっと行動に移ることができるかもしれないし、まだ必要なエネルギーには足りず、今日も行動できないかもしれない。そうすると、自分には行動力がないのだとますます思ってしまう。

自己否定をやめる

このように、人は自分自身の心を破壊して、そこからエネルギーを取り出すということをしている。そのことをもう少し見ていくと、自分を奮い立たせたいという気持ちと、自分を否定する考えが結びつくことで、心が破壊され、エネルギーが生まれているということがわかる。

自分自身に鞭を打って頑張るということが、まるで生きていく上で逞しく、称賛すべきことであるかのように、社会では平気で吹聴されている。その方法は、一見とても合理的だ。もし心というものが、決して壊れてしまうことがなく、いくらでも傷つけていいものなのだとしたら、そうだ。

実際にはそうではない。これは、エネルギーの前借り、膨大な利子のついた負債のようなものだ。一時的にはエネルギーを供給してくれるようでも、後で大量のエネルギーを奪われるということになってしまっている。

だから、この自己否定というものをやめるだけで、さらに大きなエネルギーを得ることができる。そのことは、どこかで聞いたことがあるものかもしれない。だが、この自己否定というものをなかなかやめることができない。それは、なぜなのか。

これが勝手に浮かんできてしまうのは、それもまたルーティン化されているからである。だから、まずはこれを意識を使ってやめていく。自分を否定してしまっている考えを浮かべていることに気付いたら、すぐにそうすることをやめてみる。これを繰り返すことによって、そのこともまたルーティン化することができる。

比較することをやめる

それでもまだ、しつこく考えが浮かんできてしまうかもしれない。もう一つのアプローチとしては、自己否定の考えが根拠としているものの方を破壊することだ。

その根拠とは、何かしらの評価軸によって、自分を他人と比較することで得られている。例えば、容姿や年齢、学歴や年収などの実績などといったもののことである。では、比較をやめるにはどうしたらいいか。

それには、拝金主義や能力主義、ルッキズムといったような、評価軸そのものを捨ててしまえばよい。それを捨てるには、そういったもので他人を判断することをやめるということである。

他人と比べて、自分の方が優れていると思っても、劣っていると思っても、そのとき等しく心は傷ついている。これも同じように、自分が目の前の相手に対してそうしてしまっているということに気付いたらそれをやめる、ということを意識して繰り返すことによって、ルーティン化していく。

自然のエネルギーを使う

では、それをやめてしまったら、どうやって行動するエネルギーを得たらよいのか。それは、自然のものによってもたらされる。自然はいつも、エネルギーを差し出そうとしている。だから、それをそのまま受け取ればいい。

そうするには、太陽の光を浴びたり、緑のある場所を歩いたり、心を込めて調理された自然の素材を食べることである。だから、そのようなルーティンが組んでいけるとよい。

自己否定をやめるには、まずはそれをやめると心に決めることである。だが、なかなかそう決心することができないかもしれない。それは、そのことが自分を成長させてくれたのではないかという考えだったり、とてもそれだけではエネルギーが賄いきれないのではないか、という不安から来ている。

このことは、経済を成長させるためであればいくら環境を破壊しても構わない、という社会の考え方と一致している。もし、この星を想う気持ちがどこかにあるのなら、それは自分からやめなければならない。破壊的なエネルギーを使うことをやめることだ。

自然というものを前にして、それらは何の意味も持たない。動物たちは自己否定や比較というものをしない。だから、自然の動物たちはただ生きているというだけで美しい。

それでもまだ、たしかに自然のエネルギーは一見頼りなく感じられるのかもしれない。だが、話はここで終わりではない。この続きには朗報がある。

泉に触れるとき

森の中を歩み進めていくと、その奥には霊性の泉がある。それは、使えば使うほど爆発的にエネルギーが増えていき、決して枯渇するということがない。

泉の近くにたどり着くと、なにかの存在に出会うことがあるかもしれない。僕が初めてそれを見たときのことだった。いや、初めてではない。あまりにも長い時間を過ごしていた懐かしさを感じていた。

それは、あまりにも強い光を放っていて、とても目を開けていることができない。だから、それがどんな姿をしているのかはわからない。だが、瞼の裏に映る光の陰影の動きから、それが生きて、呼吸をしているものだということはわかる。そして、その光が描いている軌跡のあまりの美しさに、涙が溢れ出していった。

それが自分自身であると告げられたとき、僕は膝から崩れ落ちた。そうして跪いた姿勢を取り続けながら、そのまましばらく号泣しつづけることしかできなかった。

破壊のエネルギーを利用することをやめて、自然のルーティンを積み重ねていくことによって、霊性の泉へと辿り着くことができる。そこには、限りのないエネルギーがあり、限りのない癒やしがある。自分がそれに触れることができたのなら、今度はそれを持ち帰って、分け与えよう。

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