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飽き性

創作欲というものは身体の中を目まぐるしく回る煮えたぎる血液の様に、「何かを作れ」と伝えてくる。だが時間が経つと今までの欲望はどこへ行ったのかわからない程急に冷めてしまい、全てを放棄する様に中途半端を量産する。
私はその身勝手な血液と付き合いながら生きている。
モチベーションの維持というのはその血液に「まだ足りない、まだ満たされていない」とある種の薪をくべる事であり、実は私が一番苦手としていた。
欲望が向いている物事に対しての“面白さ”を追求しても私の血液には然程影響がなく、時がくれば全てを放棄してしまう。
だから私は、あえて触れないという選択肢を選んで欲望を抑える方向へシフトした。抑えられている欲望は抑えられるほど大きくなる。偶にガス抜きの様に少しだけ触り、その欲望を小出しにする事でモチベーションの長続きを狙っていた。

客観的に見るとそれは「飽き性」そのものであるが、それは私が上手く生きられる様に考えた結果の産物であって、何を言われてもこのやり方を通すと決めていた。
だがその小出しの欠点とは、何かを作る時に時間がかかりすぎる事であった。時間は有限であり、私にはそこまで多くの時間は残されていない。更に悪い事に、状況が目まぐるしく変わっていくこの社会においては、その時間がかかるというのは競争に使うには完全に不利な方法である。何か方法はないものか……。

今私が自身の不幸自慢と140字には収まらないお気持ちをnoteに書いているのは、長い文章を書く事で自身を客観的に見るのもあるが、一番は創作欲のガス抜きである。プロフィールに表現の墓場と書いているのはそれが理由で、一つ一つがそこまで長くならないのもそういう事である。

今まで仕事に対して向き合い、生活というものを献上していたが、長期休みがあるのをいい事にこの期間はまた自分自身と向き合う時間として使おうと決めた。
大きな選択がまた先に控えているのを感じているので、「飽き性」である私を黙らせる様ないい決断を模索している。

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