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人生のウラオモテ

 人間にとって善と悪の表裏関係はコインの表と裏の様に簡単なものでは無く、善は自然法と常識という普遍的なものであっても、裏側は特に心情や思惑やそれに付随する欲求によって複雑になっていく。事に承認欲求というものは、その人間の裏側(悪)として扱われていると考えられる。裏アカウント、裏サイトなどがその一例で、裏側というものは基本的に外界から排他されるべきの個人の欲望であり、それは目に見えている「善であるべき社会」がそれだけ人間の剥き出しの感情のみで出来ていたら回らないと言う事だが、抑圧された欲求と感情がある意味であるべき場所に下水の様に吐き出されているのを見る度に今の私もその濁流に身を任せそうになる。あの人がやっている、気持ち良さそうだ。私も……と、遂には誰の影響かは忘れてただ自我のみが一人歩きし、昔はその沼に頭までのめり込んでいた。

 裏のアカウントを持つ事は別段悪い事でもなく、そのアカウントを作成した本人の表面に裏側の人間性が侵食しない様にする為には有効である。ロボットでは無いのだから、何らかの捌け口は必要だ。また、その裏側の人間性が誰かにとって救いとなる可能性も0では無い。
極度な社会性を持つ動物がうまく社会を回す為にある仮面の裏側は、また「必ずしも善では無い社会」を形成させる仮面である。

 インターネットを深掘りすると、退廃的で刹那主義的な人達はごまんといる。自身の裸体をインターネットの海に流して承認欲求を満たし、性欲を満たす快感に身を委ねている。そんな堕落している状況に対して私は物申す気など無く、どちらかと言えば、本人が楽しそうであればそれで良いと考えている。
坂口安吾も「堕落せよ」と言っていた事を思い出した。どんな文脈だったか本当に忘れてしまったけれども、マインドフルネスを大事にしろとかそう言う様な意味合いだった気がする。
“裏側”に対して個人的な感覚をもっと言うなれば、表の嘘に塗れた社会生活よりも、裏に潜む本音や欲求などの方が余程人間的であり、私はその剥き出しの人間性を愛しているのもあって、この沼を覗き見る事をやめられないのである。

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