『ジュラシック・パーク』が如何に当時最先端の映画であったかを振り返り、最新作に備えるためのnote
ついに今週末、シリーズ最終章となる『ジュラシック・ワールド 新たなる支配者』が公開される。
このnoteでは記念すべきシリーズ1作目『ジュラシック・パーク』を振り返ることで最新作を最大限に楽しむ準備としたいと思う。
このnoteを通じ、1作目と最新作を比べてみるのも面白いかもしれない。
哲学的SFテーマ
『できるかどうかって事に心を奪われて、すべきがどうかは考えなかった。』
『ジュラシック・パーク』と聞くと、映画に詳しくない人はぼんやりと恐竜のパニックムービーだと捉えがちだが、実はそれだけではない。
この映画の本質になる部分は濃密な哲学的SFテーマである。
映画の舞台となる島は科学の進歩とそれを誇示する事に躍起になった人類が、倫理観を放棄して建設したアミューズメントパークだ。
絶滅した生物をバイオテクノロジーにより蘇らせる。
一見、素晴らしいことのように思えるが、これは人間のもたらすエゴである。
恐竜は他の誰の手によるものでなく、自然の摂理により絶滅し、歴史にその姿を消した。
また、地球誕生から46億年、人類はその叡智で歴史を切り拓き、地球史上最大規模の万物の霊長となったが、それでも決して神ではない。
少なくとも、自然の摂理による栄枯盛衰の歴史を操作できるほど、偉い存在などでは決してない。
つまり、森羅万象による「恐竜の絶滅」という不変の歴史的事実に、たかが人類如きが身勝手で傲慢なメスを入れる余地など無く、またあってはならないのだ。
この“科学技術という玉座の上に踏ん反り返り、倫理観を喪失した人類へ対する警鐘”という哲学的SFテーマがジュラシックシリーズには一貫して込められている。
そして、このテーマを象徴するかのように劇中で引用される理論がある。
カオス理論だ。
カオス理論とは、ほんのわずかに初期条件が変わるだけで結果に大きな差が起こる現象、予想がつかないような複雑な現象を起こす微分方程式・力学系を扱う理論のこと。
このシリーズで描かれる恐竜の暴走は「どんなに優れた科学システムをもってしても予期できない突発的エラー」のメタファーであり、それに翻弄される人類は「科学技術に盲目的信頼を寄せる愚行者」だ。
この予期できない突発的エラーを説明する材料として、カオス理論が劇中で引用されているのである。
日本には「風が吹けば桶屋が儲かる」という諺があるが、この理論は概ねそれと同義だ。
もっと簡単に言うならば、“人類の構築するシステムに完璧は無く、全てを予期することなど不可能”という話だ。
このカオス理論があるにも関わらず、なぜか盲目的に科学を信じきっている人類の愚の骨頂を演出する舞台装置として恐竜の暴走が描かれる、というワケである。
本作は、恐竜をただの恐怖の対象としてではなく、人類が抗うことのできないエラーとして、また恐竜の凶暴性を雄大な自然の象徴として描くことで、ただのパニックムービーに留まる事のない傑作となったのだ。
先進的な映像技術
『ジュラシック・パーク』は映像技術という点においても革命的映画である。
1991年、『ジュラシック・パーク』1作目の製作が開始。
当初、監督を務めるスティーヴン・スピルバーグはストップモーションとアニマトロニクス(※生物を模したロボット)によって恐竜を現代に蘇らせようと画策。
その一方で、映画制作に参加していた映像技術者デニス・ミューレンがデモンストレーション用の恐竜をCGで製作したところ、それを見たスピルバーグがその技術力に一目惚れする。
一部を除いて、ほぼ全ての恐竜登場シーンがCGに置き換えられる事となった。
この出来事こそが映像作品における、CG技術の変革となったのである。
『ジュラシック・パーク』以前の映画ではストップモーション等のアナログな手法が主流であり、CGは簡素なモデリングが精一杯であった。
ところが『ジュラシック・パーク』以降、CG技術は爆発的に躍進する事となり、映画産業に一大革命をもたらす。
また本作はこの革新的なCG技術にかまけることなく、効果的な場面ではアニマトロニクスを採用した点も、評価されている。
木の上でブラキオサウルスに触れるシーンや、ティラノサウルスが子供を襲うために車のサンルーフを突き破るシーン等、本作を象徴する名シーンでは敢えてアニマトロニクスを使う事で迫力感の演出に成功しているのだ。
劇中の科学者は最先端テクノロジーで恐竜を蘇らせる事に躍起になったが、この映画のクリエイターはハイテクノロジーだけでなくローテクノロジーも積極的に駆使することで成功を引き寄せた。
なんとも皮肉が効いていると思うのは私だけであろうか。
沢山の人々を魅了した一番の理由
長々と『ジュラシック・パーク』の魅力について語ったが、私が本作において一番優れていると思う点はまた別にある。
それはなんと言っても、上記のような小難しいテーマや、その制作に関わるバックボーンを知らなくとも、全くもって無問題であり、老若男女誰しもが愉しめる娯楽としてこの上なく大成している事である。
決して難しいストーリーではなく、誰しもがひと目見て感嘆の声を漏らすほどの映像技術、敷居の高い哲学的SFテーマを内包しているにも関わらず、映画を楽しむためのパーツ一つ一つは、とてつもなく分かり易い要素で構成されている。
私はこの点において、スピルバーグの真髄が活きている事を感じて仕方がない。
稀代の映画監督スティーヴン・スピルバーグ、彼の人々を魅了する作家性が一番詰まっている映画こそ『ジュラシック・パーク』ではないだろうか。
そして迎える完結
2022年。
1作目から30年近く経ち、シリーズはようやく完結を迎える。
この30年間、映画産業は怒涛の進化を遂げた。
当時と売って代わり、CGを一度も見ないハリウッド映画など最早稀有な存在とまで言えよう。
『ジュラシック・パーク』がもたらした映像革命は今もハリウッドの地に根付いている、どころの話ではない。
『ジュラシック・パーク』が一つの時代を切り拓いたと言っても過言ではないだろう。
シリーズは今週末、終わりを迎えるがハリウッドのクリエイターはまだまだ留まるところを知らず、更なる進化への歩みを進めるだろう。
スピルバーグと技術者が『ジュラシック・パーク』で築き上げた功績は、映画という文化が潰えるその日まで、永遠に遺り続けるのだ。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?