ディズニーとポリコレについて。

実写版『リトル・マーメイド』にてアフリカにルーツを持つ女優がアリエル役に抜擢され、インターネットで物議を醸したことは記憶に新しいかと思います。

このように、「昨今のディズニー作品はポリティカル・コネクトレスを重要視し過ぎるあまり質が落ちている。」といった趣旨の言説を唱える方々が近年インターネットで散見されます。

この言説自体は言ってしまえばただの個人の作品の所感であるため、批判するつもりはさらさら無いのですが、このような突き放した発言をする方々の中にディズニーの歴史を分かった上で発信している者が一体どれほど居るのだろうか、と思うことが多々あり、モヤモヤしているため、このnoteを綴るに至りました。

いわゆる個人の評価の範疇を出ない“作品の質”とやらを相対的に評価するのは些か難しいところである為、ポリコレを配慮して作られているディズニー映画の良し悪しについては今回は話すつもりはありません。

しかし、なぜ今、ディズニーがここまでポリコレに躍起になっているのかを、ウォルト・ディズニー自身の生い立ちや、ディズニー社の沿革を踏まえて今回のnoteでは考察したいと思います。


まず初めに、ウォルト・ディズニーはレイシストであったという話は今も昔も議論の絶えない話題です。

昨今ではアメリカを代表する大女優メリル・ストリープがとある授賞式にて「ウォルト・ディズニーはレイシストだった」という旨のスピーチを行い、女性の権利を主張しました。

死人に口なし、実際にどれほどの差別思想を持っていたのかは分かりませんが、ウォルト・ディズニーの息がかかった黎明期の頃のアニメーションには人種差別的な表現や、極端な政治的思想の反映されたプロパガンダが製作されていたことは事実です。

ですが、ウォルトが熱心に活動していた1930年代頃の時代背景を無視して彼を批判するのは全くもってフェアではないと、私は思います。

当時、黒人は教会でも祝福を受けられませんでしたし、女性が地位のある職に就くことは稀でした。
それがアメリカ社会の慣例であり、固定概念化されていた為、そこに疑問を抱く白人も決して多くはなかった事でしょう。
そしてウォルトも勿論、例外ではありません。
また、第一次世界大戦及び第二次世界大戦を経験している為、日本やナチスを非難するプロパガンダの製作に意欲的だったことも時代背景を鑑みれば理解できましょう。

もう一度言いますが、今では考えられないような差別が当たり前のように横行していた時代で生まれ育ち、教育を受けてきたウォルト・ディズニーを今の時代感覚で批判するのはフェアではない、と私は考えます。

また、一方で実際にウォルトはレイシストではなかったと語る人々や記録もたくさん存在しています。

例えば、ディズニー社の女性社員に精力的に社会進出の機会を与え、才能ある者は性別を問わず昇進させていたという証言も存在しており、社内での男女平等を謳うスピーチの記録も残っております。
更には、映画制作の際、黒人出演者を丁重にもてなしており、自社の黒人アニメーターにも差別的な態度を取ることは一切無かったとも語られています。

これらは実際にウォルトと共に当時一緒に働いていたディズニー社のスタッフの生の証言であり、信憑性は確かな物です。

ではウォルトはレイシストではなかったかもしれないのに、なぜ差別的なアニメーションが製作されたのかという疑問が残りますが、これについては時代がそうさせたとしか言いようがないように思えます。

ウォルトにとって、また社会として、当たり前だった事由がアニメーションに反映され、その事実だけが一人歩きした結果「ウォルト・ディズニーはレイシストだった。」という論説が産まれたのではないかということです。


ここまで長々とウォルト・ディズニーの生い立ちやディズニー社の歴史について語りましたが、じゃあ何が言いたいのかと言いますと

「ウォルト・ディズニーがどれほどのレイシストだったかどうかは今となっては誰もわかんないけど、ディズニー社が差別的なアニメーションを製作していたことは事実だよね。」

ということです。

そしてこの「ディズニー社は差別的なアニメーションを製作していた。」という紛れもない事実こそがディズニー100周年という節目の年、今になって負の歴史としてスキャンダル化しているのです。

具体的にどのような差別的表現があったのかは、『ダンボ』のカラスや『ピーターパン』のネイティブ・アメリカンetc…調べてもらえればそれはもうあれよこれよとnoteに書ききれんほどにわんさか出てきますので割愛しますが、この事実がディズニー創立から100年の月日を経て社会に効いてきてしまっているということが重要なのです。

「『リトル・マーメイド』のアリエルは赤毛の白人である為、黒人が演じるのはイメージと乖離していて腑に落ちない。」という主張は確かに理解できますし、そう思うことは何も悪いことではないでしょう。

ですがここで今一度考えてください。

“アリエルは赤毛の白人である”という固定概念の種を蒔いているのは何を隠そうアリエルを赤毛の白人としてアニメーション製作したディズニー社だと言うことです。

ディズニー社が蒔いた固定概念の種を見て育った我々は、アリエルは白人であるというレッテルに疑問符を持つことなく、黒人のアリエルに嫌悪感を抱きます。

ですが、10年後50年後100年後を生きる未来の子供達はどうでしょうか。 

実写版『リトル・マーメイド』が誕生したことで、彼等の生きる世界には白人のアリエルもいれば、黒人のアリエルもいます。

それは固定概念の種に囚われることのない、レッテルの解消されたイーブンな環境です。

そして私はディズニーの目指しているところはここではないかと考えています。

今を生きる我々へのメッセージは勿論、未来を生きる子供達への伏線。

ウォルト・ディズニーがそうであったように、差別が慣例化している社会で育った人々は、それが差別だと気がつく事もなくまた差別をしてしまいます。

しかしそれを続けていては世界にレイシズムは無くなりません。

今回は『リトル・マーメイド』を例に挙げましたが、勿論この作品だけに限った話ではありません。

確かに全ての人種、性別、思想を一つの作品で配慮することは不可能です。

ですが、だからこそディズニーは躍起になって常に多方面に向けて不断の配慮をし始めたのではないでしょうか。

今年100周年を迎えたディズニー社は次の100年、今よりもさらに差別のない世界を実現するために躍起になってポリコレの種を蒔いている

ということです。

100年後の未来を生きる子供たちの目に映る世界、黒人のヒロインもいれば日系のヒーローもいて、眼鏡をかけたラテン系の女の子が活躍すれば、ブロンドヘアーの白人のプリンセスもいる。

それらを見て育つ子供たちは己の人種や性別や容姿に劣等感を抱くことなく、自己実現の叶う世界。

そんな夢物語のような社会を創造するために、ディズニー社は躍起になってるんじゃないのかな、と私は思うのです。

「ポリコレばかりで面白くない。」と評するのは簡単です。

ですが、差別的なアニメーションを製作してしまい、また白人ばかりを贔屓してしまったせいで今の時代に少なからず影響を与えてしまったディズニー社が、過去の負の歴史を清算しようとしている事も頭の片隅に入れた上で今一度、今のディズニー映画を評価してほしいのです。

「ディズニーランドは完成しない。この世界に想像力が残っている限り、成長し続ける。」

ウォルト・ディズニー

創立100周年、ウォルト・ディズニーの飽くなき想像力が今も根付いているディズニー社がかける魔法は次の100年後の世界へ届ける願いなのではないでしょうか。

「この願い 今日よりもっと輝く
 この願い あきらめることはない。」

ディズニー100周年記念作品『ウィッシュ』主題歌より

ウィッシュ、楽しみだね。


これは余談ですが、それはそれとして、ディズニーだって営利を目的とする企業ですから、昔はアメリカ人や白人だけを相手にする商売で儲けてましたけど、今や市場規模が全世界に広がりましたし、そりゃ白人相手だけの商売はしないよね、とも思いますけどもね。

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