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2024.4 同居人と桜のこと

休みの日、昼寝している同居人の顔の輪郭に、光があたっているのを見ていた。

私には同居人がいる。籍が入っているため、夫と呼ぶ方がわかりやすいかもしれない。が、夫という言葉があんまり似合わない人だから、同居人と呼んでいる。
けっこう歳が離れている。同居人が25歳の時に私がこの世に生まれていて、たまにふたり揃って自分たちの年齢差に「ハァ〜〜〜〜〜ッ」となっている。

以前、同居人に、「ふたりで一緒に桜を見られるのはあと25回くらいしかない!」と言ったことがあった。
確かX(旧Twitter)で、平均寿命から逆算してあと何回桜を見られるか、といった漫画が流れてきて、それで計算してみたのだと思う。
同居人からは「25回もある」と返ってきた。
その25回の春のうち、ふたりの頭がはっきりしていて、体が動いて、お互いがお互いを同じ熱量で思える春は何回あると思っているのか。

近所の公園に咲いていた桜

同居人の顔が光に照らされているのを見ていた。
同居人はいい顔をしていると思う。
世間一般でいう美形ということではなく、ちゃんと生きてきた人の顔をしている。
私から見ると、何時間でも眺めていられる顔である。

あと何年、こういうふうに同居人の顔を眺められるだろう。
あと20年したら相手が認知症になっているかもしれない。
それより早く、体が動かなくなっているかもしれない。
そのとき、私は同居人を慈しんでいられるだろうか?

桜が、咲くと同時に散り際を心配されるように、同居人は生活する側から晩年を心配されている。私によって。

同居人に、終生、幸せな男でいてほしい。
私が彼を幸せにすることは、あんまり、というかほとんどない気がする。
だから、私の隣で勝手に幸せに生きていて欲しいと思う。
無責任だろうか。

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