昔は仲間がいたという心地良い虚無
コロナ禍以降、人との係わりが減ったことで忘れていた、ちょっとした虚無感。
今年に入ってすぐ、思わぬことから運動を始めた。
週に一回、数人で集まってバドミントンをする。
ガチのダブルス。
自分も高校生の頃は、地区大会で優勝できたことがあるので何とかついていける。
が、20年ぶりの本気は身体に堪えた。
社会人になってからもしばらく続けていたが、途中辞めになったのは当時、遼の闘病生活が始まったから。
リハビリも回数を重ねるごとに身体も感覚も慣れていき、だいぶ調子が戻ってきた。
ただ、仕事の方も何かと気忙しく、行けたり行けなかったり。
もともと人との係わりが得意ではないのだけれども、運動がしたいので参加する。
いざ、体を動かして汗をかくと、そこでしか得られない爽快感がある。
基本的に一人が好きで、でも、時には誰かとの共同作業も嫌いではない。
共通の目標、目的があれば一時的に仲間になれるのだ。
その一体感がなんとなく楽しくて、だから、勝っても特に嬉しくないし、負けても悔しさがない。
そういえば、中学生の頃のバスケ部の試合もそうだったな。
試合の勝敗は特に気にしていなくて、ただ、なんとなく皆との一体感が好きだった。
仲間がいるという青春。
今となってはときどき、「仲間」の人たちを見て羨ましく思うことがある。
仲間とは刹那の瞬間だと思っている。
人間関係とは、近くなり過ぎてはいけない。
仲間とは、その近すぎる距離感を許してしまう、ある種の過ちだ。恋も同じく。
家族でもなく、仲間とは刹那の瞬間。
青春と同意語。
その過ちは、無知、知らない故の至福の時間。
そのほかは利害関係のみの、特に面白みのない関係だ。
もしくは、自立した個人としての活動があるのみ。
たぶん、自立した個人同士の付き合いが、もっとも健全なのだと思う。
ただ、利害関係を無視した過ちという時間が人を成長させることも真実。
中学時代のバスケ部の同級生たち。
中高校以後の数人の親友だった友人たち。
二つ目の職場の救急現場の同僚たち。
ネットを通じて出会ったふたりの天然チャネラーKさんたち。
自問自答部だったみんな。
以前の職場の縁の下チーム。
それらが僕にとっての仲間だった。
自立していないからこそ仲間だった。
もう戻れない、少なくとももう今生で仲間と呼べる人には出会えないだろう。
だからもう、憧れでしかないのだ。
今日は、スポーツを通じた久しぶりの一体感のあとの虚しさが懐かしかった。
※写真は事代主命が主祭神の神社にて。単車は仲間ではなくて家族ですね〜
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