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八咫烏は首輪をはめた

柒・伍番街現代パロディ 社会人軸
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 短針は頂点よりも少し前、ウノウチはのんびりとした足取りで食堂へ向かっていた。営業事務として本社に移動してきて一週間になるが、気負う様子は少しもない。周囲に誰もいないのをいいことに人好きする笑顔はしまわれている。昨日の夜にシステムの一部が故障したと連絡が来たが、まさか自分の部署が関係しているとは思わなかった。おかげで何もできることがなく、他部署の手伝いに回されてしまった。挙げ句の果てに「先に食事していていいよ」などと言われる始末。いそいそと喫煙所に向かう上司に背を向けた直後、口角は急降下した。
「忙しくなると思えば、なんなんだまったく」
 人がまばらの食堂に視線を向ける。習慣と化した動きは一人の背中を探していた。まあいないだろうな。やさぐれているのは同じ時間にいるお目当ての女性と会えなさそうにないから。けれど。
「ウッソマジ……!?」
 つい言葉が漏れる。同時に相手も顔を上げた。唐揚げを口に入れたままぱちくりと目を瞬かせて、手を振る。ウノウチも手を振り返して食券機へと向かった。
 いるとは思わなかった。今日が運が悪い日だと、愛想笑いの下で戦犯に愚痴を言っていたくらいだったのに。さりげなく確認した唐揚げ定食のボタンを押す。
 訂正、本日は良い日だ。普段は友人たちに囲まれてしゃべりながら食べているのに、今日は一人だなんて。システムメンテナンスに巻き込まれたのだろう、営業部だから。周囲にいたのは別の部署の人間なのでたまたま免れた。幸運だ。あの渋谷皇と二人きりで食事ができるなんて機会が、こんなにも早く訪れるとは。
「渋谷さんこんにちは。お隣いいですか?」

「こんにちは! 座って座って! 今日誰もいないから寂しかったんだよね〜!」
 渋谷皇、歳は二つ上。営業部の絶対的エースで他部署にも知り合いが多くいる。誰にでも平等に優しく、相手を責めることもない。付き合いたいランキング、結婚したいランキング、その他女性禁制ランキングの多くで最多得点を取り続けている、いわばマドンナ。移動してきたばかりのウノウチが好きになるのも無理はなかった。
「いつも誰かと一緒に食べているので、チャンスだなと思って。来ちゃいました」
 ほんの少し首を傾げて肩を上げる。にへっと緩んだ笑顔で隙を見せる。すでに何度か見せている仕事姿とのギャップを感じさせればいい。それと同時に地道な好感度上げをする。女の攻略法にはいつだってセオリーがあった。
「まあ女ばっかりだと話しかけづらいよね。ウノウチくんのとこは事務なのに男性が多いよねえ」
「そうですね! でも丁寧に教えてもらっててめっちゃわかりやすいです!」
「文系が多いし、珍しく本社に入ってきた後輩だから可愛がってるんだよ」
「嬉しいっすね! そういや、渋谷さんはどっちなんですか?」
「あたしも文系! ウノウチくんは?」
「文系っすね! 営業はやっぱ文系多いですよね!」
「トークが大事だからなあ営業は……」
「他にも裁縫が得意だったり料理好きな人が多いんですよね〜!」
「わかる〜! 隣の席の子なんて服作ってネットにあげてるらしいよ。やばいよね!」
 話題をつなげ、自分の思い通りの質問が出せるように場を整える。人付き合いは分かりやすくていい。
「そういえば、今日はお弁当じゃないんですね」
 相手の得意な一面を話題にするのは――今日は弁当ではないと話題もある――ひとつのセオリーだ。ただ、ウノウチには情報が不足していた。
「ああ、いつもは同居人が作ってくれてるんだけど昨日から忙しいみたいでさ」
 渋谷は大の料理下手である。本人が隠している訳では無いが、大半の人間は知らない情報だった。誰が思うだろう、完全無欠のマドンナがキッチンを爆破させるほど壊滅的に料理が下手だなんて。ウノウチもまた想像だにしなかった。
 足先が冷たくなる。
 乾いた舌を唾で潤す。
「……へ、ぇ、彼氏さんですか?」
 セオリーも逃げ出すような完璧な笑み。大きく早くなる心音が結果発表のカウントダウンだった。
「ううん、オンナノコ」
 なんということではない。渋谷はしなだれた千切りを運んでいた。
 張り詰めた空気が解け、再び花が飛び散る。
「そうなんですね、ルームシェアってやつですか!」
「そお! いつもはお弁当も用意してくれるんだけどね、昨日から忙しいみたいで……今日も冷食とカップラーメンかなあ」
 チャンスである。間違いなく。目の前には料理下手な未来の恋人。その隣には料理の上手なオレ! だがしかし、ウノウチは誰かに料理を振舞ったことがなかった。歴代の彼女は皆料理上手で振る舞うことを至上としていたし、本人もまた振る舞われるのが当然であると疑うことがなかったから。
 いちばん大きな唐揚げが皿から消える。頬いっぱいの肉を急いて飲み込む。隣を盗み見れば、太陽の光に照らされて絵画のような様相を目の当たりにする。コップを傾けて喉を鳴らした。ウノウチは、口を開いた。
 言葉は出ない。ぁ、とかぅ、とか音にすらならない息が漏れる。渋谷は最後の白米を飲み込み、唐揚げに手を出そうとしている。今、言わなければ。
「ぁ、――

「ねえ、いいもん食べてる」
 麗しの横顔が隠される。緞帳は下ろされた。先の見えない暗闇に飛び込む勇気は、なかった。
「墨! もう終わったの?」
「うん、お腹減ってるからちょうだい」
「しょうがないなあ」
 渋谷は箸を持ち替えた。慣れた手つきで持ち上げて自分でない人に食べさせる。ウノウチの口は僅かに開いた。
 食べ終えた第三者がウノウチを見下ろす。よく知っている顔だ。渋谷と昼を共にしているのは千代田だったから。
 目が合い、尻のすぼみがキツくなる。出方を見られているが、ウノウチは見上げたまま動けなかった。
「皇がお世話になったね、コイツ煩かったでしょ」
「ヒドくない!?」
「や、そんなことないですよ。たくさん話せて楽しかった……です」
「最近来たウノウチくんだよね、営業事務の」
「ア、はい。技術部の……千代田、さん、ですよね。あの、トップの」
 うってかわって、たどたどしい。背中にジリジリと染み出してくる。汗と、醜い上から目線、それから自尊心。光を陰った姿がやけに大きく見える。トップと口にしたのは僅かばかりの対抗心がゆえだった。せめて、目だけは逸らしてなるものか。
そうしてウノウチは見てしまう。
 すぐ真顔に戻って顔を逸らしたが、確かに口元が歪んでいた。
「データは直したから、午後からはいつも通りに仕事ができると思うよ」
「……はい」
 呆然としたまま、ただ返事をする。
「もう、もどり、ます」
「ああ、それならこの通知書渡しといてくれる? 電子書類が嫌いだっていうからさカイゴウさん」
「はい、じゃあ、もう行くので」
 食器をぶつけながら椅子から立ち上がった。
「そんなに焦らなくてもいいよ。急いでるなら私が片付けておこうか?」
「大丈夫です! おれの、食器なんで……!」
 必死に繕って盆を持ち去る。返却された食器はイヤに綺麗で、口を開けていたエレベーターの奥には青ざめて身目の乱れたおとこがいた。目が合った、最後まで。甲高い鈴の音が鳴る。
「……っ、はァ!!」
 ウノウチが気を持ち直したのは、リモート会議用の小さな部屋である。白地の壁にモカベージュの板がかけられている。時計が揺れて、とまって。また揺れて。
 のんびりと時間が進む小部屋の入口で、地べたに足を投げて座っていた。入口の引き戸に背中をぶつけ、両手で目を隠した。
「フーーーッ、フゥー……ッ、」
 安堵している。あの場から逃れたことに。幾人かは見ていただろうが、ウノウチにはそんなこと、もうどうでもよかった。
 自分を好きになるだろう美人のことだって、いや、自分を好きにならないだろう他部署の先輩のことだって、もうどうでも良い。
 誰にでも笑顔で、優しくて、ユーモアがあり、顔が広い。裏を返せば、平等に冷たく、常に空気を読み、有事のために根回しをしているわけだ。
 思い上がっていただけだった。同じことの繰り返しだと思っていた。だっていつも同じだった。笑顔で、気遣いができて、自分のことを好いていると思った。誰にでも同じ行動ではなかったか? 歴代の彼女は皆、本当に笑っていたか?
 初めて付き合った中学生から、ひとり、またひとりと誰もが、自分を見下ろしている。足元にいて見あげられていたはずが、いつの間にか上から見下ろされている。真後ろで靴音がする。ヒールについたチャームが鳴っている。甘い香水が漂ってくる。
「あたしがウノウチくんのモノになるって、本気で思った?」
「……………………いいえ」
「あたしが男に貢いで捨てられるような女に見えた?」
「………………いいえ」
「あたしがウノウチくんのことが好きだって、本当に思えた?」
「…………いいえ、っ」
「あたしが、」
 目の前が陰る。恐る恐る頭をあげる。
「あたしが墨よりウノウチくんを大切にするって、思える?」
「い、いいえ、いいえ、いいえ!いえ、っぁ、ああ」
 目の前で見下ろす、獣の瞳。
「ウノウチくんのせいで、墨が帰って来れなかったって、本当に自覚している?」
 急に地面が無くなった。見上げて腰の引けていたから、重力に従って後ろへ倒れる。早足で住みに近寄った皇が、わらった、ような。
 視界が白に染まる。
 目の前で火花が散った。
 それから、のんびりとした低音が聞こえた。
「おーまえ、こんなとこで何してんだァ」
「……カイゴウさん?」
 真上には煙を吸いに行ったはずの上司がいた。手前開きの扉をカイゴウが引いたらしく、寄りかかっていたウノウチは支えを失い、後方へ倒れたらしい。後頭部がのんびりと痛みを訴えてくる。ゆっくりとウノウチは起き上がった。
「なんで……?」
「いやぁ、俺がなんで!? メシ行ったんじゃねェのかよ」
「い、いきました、けど」
 暗闇に浮かぶ獣の瞳が脳裏に蘇る。あれは幻覚?それとも、頭がおかしくなったのか? 息が荒くなり、頭に手を当てて背中を丸める。
「なんだ、どうしたよ」
 目線を合わせるようにしゃがみこみ、真面目な顔をした。こんな顔は今まで見たことがない。仕事でも、というか今までウノウチに真剣に向き合ってくれた人はいただろうか。
 よれたスーツにしがみつく。
「実は……」

 打って変わって、食堂。新しくトンカツ定食を頼んだ皇と、南蛮定食を頼んだ墨が並んで座っている。
「皇さあ」
「何?」
「ウノウチくん、あんまり虐めちゃダメだよ」
「あの程度なら大丈夫でしょ〜。カイゴウさんがいるんだから」
「何でもカイゴウさんに任せるなって言ってんだ」
「だいじょぶだよ。カノジョと別れた翌日に別のカノジョつくってんだもん。切り替えはやいの」
「どこ情報だ」
「カイゴウさん」
「えっぐぅ」
「だから営業事務は好きだけど行きたくないの。囲い込み漁されちゃうからね」
「全部思い通りってわけか」
「ま、時にはそれが救いになることもあるわけで」
「まあ、ほら」
ああいうのってさあ。皇はひとつ、水を飲む。

「あーあ、洗礼うけたかあ!」
「笑わないでくださいよ!」
「うちの会社じゃあよくある光景だよ」
「あ、ありえない。渋谷さんてそんな人なんですか!?」
 曰く、大層片付け下手である。
 曰く、調理室を爆発させたことがある。
 曰く、曰く、曰く……。完璧などこの世にないらしい。渋谷の裏側はウノウチには刺激が強かった。机の上で頭を抱える。ワックスで整えられた髪も掻き回されて鳥の巣だった。
 カイゴウはニヤニヤと笑い、目尻に涙を浮かべている。筋肉がつるほど腹がよじれた後だ。
「渋谷さんが、そんな人だと! おもわなかった!!」
「ここに来たヤツは皆そう言うよ。ご愁傷さま」
「……そんな人だと思わないと言えば、ウシさんも意外でしたよ」
 頭を抱えたまま、視線だけで見やる。無精髭、寄れたネクタイ、苦々しい香水に食い散らかした多数の袋。
「なにがだよ」
「もっとガサツで給金泥棒かと」
「上司だぞ、俺は」
「女性には嫌われそうですね」
「分かってねえなぁ〜。オンナってのは」
「こんなふうに優しくして貰えるとは思いませんでした」
「聞けよ!」
 平手で机が叩かれる。取り繕うのは諦めて、腕の下に顔を隠した。
「ま、なんかあったら頼ってくれな。息の抜き方くらいは教えてやる」
 太く大きな手が髪をかき混ぜた。
「仕事も教えてください」
「そうだなー、じゃあ共通データ消さないとこからはじめっか!」
「茶化すな!」
 勢いよく顔を上げて目の前の真面目な顔をとらえた。
「まあ安心しろ。お前はただのカラスじゃなくて八咫烏になればいいんだ。おまえならできる。誰かを導けるよ」
 撫でると言うより乗せる程度の。優しい信頼が頭に乗る。
「今回は、迷惑かけてすんませんでした……」
「おう。また取り返しゃあいいよ」
「はい」
 無人の部屋の扉が閉まる。

 飲み干されたグラスが置かれる。
「ああいうのってさあ」
 人が増えてきた食堂で千代田にだけ聞こえる声で、呟いた。

――一種の宗教だから。

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