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危難の留守番、微睡の誘惑

柒・伍番街本編軸
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「なぁコレなんてエロゲ?」
 カエデは革張りのソファの上で心臓をばっくばっくと鳴らしながら天を見上げていた。そう、ばっくばっくと。心臓が口からまろび出そうなくらい自分の心臓の音がうるさかった。
 昨夜、遅く帰ってきたカエデは部屋に向かうことすら億劫で、シャワーで汚れを落としてすぐにソファに倒れ込んだはずだった。常設されているふあふあなクッションを腹に乗せて足を組んで寝たはずだった。
 それが、一体どういうわけか。カエデのバキバキに割れた腹筋の上で、おててを畳んで丸まってぴすぴすと寝息を立てているおひいさんがいるではないか。
 目が覚めたら愛しいご主人様が自分の上に乗っているってなんてエロゲ? それともラノベ? いや、俺ラノベ読まねえんだわ。ルカが帰ってきたらおすすめのラノベを借りるべきか? 素早く環境に適応できるカエデの灰色の脳細胞は、どうやら死滅してしまったようである。
 何はともあれ、この小さくて触れただけで折れそうなロップイヤーは獰猛なブラックパンサーの腹の上で寝ているのである。全く呑気なものだ。
「んぅ……」
 位置に満足がいかなくなったのか、足を伸ばしたり顔を擦り付けたりしてなんだか随分と危ない場所におひいさんが近づいている。両腕はカエデの首に緩く回されて、ちんまりと盛り上がる鼻が首筋に擦り付けられる。そのくせカエデの右足をがっちりホールドしているものだから、おひいさんの、ほら、あの……デリケートなゾーンがカエデのふとももにぴったりとついているのだ。好きな子にむちむちなおにくで挟まれるとか理性が鼻血ブーしそうだった。
 いくら普段からパーソナルスペースがゼロに等しいからってあまりに警戒心が無さすぎないか? カエデの顔は既にトマトより真っ赤なのに。息子がむくりと首をもたげないように、しかしおひいさんを起こさないように必死で太ももに力を入れるしかない。某鬼退治の少年のように歯の隙間から息を漏らして我慢する。そう、俺は長男だから耐えられる。長男でなかったら──いや、俺捨て子だったわ。じゃあっ、あれっ? もし、もしかして耐えられない……? 自分長男論争によって宇宙猫になること10秒。この話題はブラックホールの奥深くにしまうべきだったな。カエデは悟りを得た。
「……うにゃあ」
 おやまあなんとかわいらしい寝言かしら。お目目がまんまるになってしまうね。逸れた道の向こう側の花畑で冠でも作っているのかしら。
 まあ、当たり前だがカエデには自分にしがみついてぷうぷう鼻を鳴らすかわゆいおひいさんを起こすという選択肢はなかった。
 う〜〜んどうしましょ。めちゃくちゃ手を出したい。いや、もちろんダメってわかってるけど。でも俺だって健康な20代だぜ?? 性欲なんてばりばりあるに決まってる。いつかまともに暮らせるようになったら道行く女の子がみんな振り向く男になるんだ。はじめてはおっぱい大きくて口元にえっろいほくろのあるお姉さんってのがカエデの子供の頃からの夢である。発想が貧相。拾われた後真っ先に向かった娼館から門前払い喰らったし、ルカにもアオイにも性病持って帰ってきたら殺すって言われたからな。残念、カエデはまだ童貞なのであった。

 んむむむむ、と口をもだもだと動かしながら考え込み、ひらめきと共に目を見開く。
 やっべえ! 目ェ瞑ると余計ぽてもちふあふあが肌に吸い付く! なんかちょっと熱も染み渡ってくる! うわ、やばい!! めっちゃ興奮する!! お前は男子高校生か。ハァイ、ジョージィ? と鎌首をもたげる息子くん。子供は寝る時間だよ! 嘘、今はブランチのお時間である。最早カエデが目を覚ました時間から体感2時間は経っているのだ。
 これだけ会議場で犬がサンバを踊っているってのに、おひいさんは相変わらずへにゃと体の支配権をカエデに委ねたままなのである。困っちゃうね、まったく! しかしここまで安らかにお眠りあそばしているのはカエデが一切動かないでいることも一因だろう。脳内カーニバルな男子高校生(概念)も肉欲以外の感情を持っているのだ。
 カエデはおひいさんのぐちゃぐちゃに乱れた姿を見たいと思う傍ら、のほほんとやわらかな光を浴びて笑っていてほしいとも考える。矛盾する感情を持つのが人間というもの。黒豹にもなれるカエデは人間の枠組に入ることがここに立証された。
 おひいさんがこれほどまでに緩やかに四肢を投げ出せているのは、それなりの信頼と安心感があるがゆえの行為だ。向けられる感情に誇らしさを感じる。この地球上、いやユニバースで最も尊いまさに殿上人たるおひいさんに認められるなんてノーベル賞のトロフィーを100個並べても釣り合わない褒賞だ。ここまでされて普通の男なら早々に喰らうか揺り起こすだろうが、そのどちらでもない状況、愛でしかない。
 ただ少し、ほんの少しだけ寂しいなと思うのは。ルカとアオイにも同じように接するんだろうところ。
 彼女には確信がある。カエデは無体なこと、痛いことはしない。
 罪悪感がある。カエデを所有していること、迷惑をかけていることに。
 だから受け入れてしまう。カエデがしたいって言えば自分を暴かれてもいい、いつか知らない誰かにされるよりも信頼できる相手の方がいいって。
 でもカエデだけじゃない。ルカとアオイもそう。そもそも、カエデの方が後にやってきたのだ。俺は出遅れている。どうしてもその不安が頭をよぎっている。なので余計にがっつくことを抑えねばな〜という打算もあったりする。うん、打算。まあカエデがこんだけ頑張っていることをおひいさんが知ることなんてないのだろうけど!
 ……帰ってきた二人に褒めてもらおう。ほんと、褒めてもらうからな。くだらないことを考えてどれだけの時間が経ったか。翳りが薄くなってきたが、まだ二人が帰ってきた気配はない。
 目が覚めたら布団の代わりに愛しいご主人様が自分の上に乗っていてしかもすぴすぴと寝息を立てていて理性がブチギレそう。絶対に落とさないように、触らないように、空中に手を伸ばした状態の不安定な状況で自分の顔は真っ赤っかだろうし汗かいてるし、息子はむくむくと目を覚まし始めた。しかもうなりつつ俺の体に擦り寄ってくる、何? え、どうしよう手を出したい。だって俺めっちゃすきなんだもんどうしよう。恋愛感情持ってるし被所有欲もあるし、性欲もある。ばりばりある。俺、だって健康な20代だぜ?? 一番盛り上がるときじゃねえの? でも寝てるから。睡姦はよくない。でも、もし起きたら? もし起きたらどうすんの? 俺がしたいって言ったらおひいさん絶対にいいよ、とか好きにしてって言うじゃん。絶対に俺が無体なことしないって、痛いことしないって確信があるから、俺が健全な男だってこともわかってるから。だから、俺がしたいって言ったら普段迷惑かけてるもんな、俺ならいいかって、俺に暴かれるならいいなって思っちゃうんだよなこの人は。俺だけじゃなくてあいつらにも同じことを考えているのが気に食わんけど、え〜〜〜〜〜どうすりゃいいのこれ、起きる前に帰ってこい、まじで!! 帰ってきてくれ! 昼には帰ってくんだろ!? 天気的にもう10時とか11時だよな?? はよ、頼む。あとちょっとだから。起きちゃうから!!

「んぁ……? かえぇ……くぁう~ぁ……」
 舌ったらずで名前を呼ぶんじゃないよ。ほら、お前たちが返ってくるのが遅いから起きてしまった。どうしろってんだ。頼むから寝転がったまま縋りついて欠伸をするのをやめてくれ。そろそろ脚の筋肉も攣るから。のっそりと起き上がるのはいいけど、腹に高まった紅葉型の体温を当てるのは良くない。あとどうして腰の上に座るんだ。一体どうしたいんだ俺を!
「おあよう、カエデ」
「はよ、ひいさん」
 いまだうつらうつらしている。愛らしくて無事に目が覚めてほっとする反面、口の中に突っ込んだらどんな反応するかとか下衆な勘ぐりが反面。最低だ。
「……もう少し寝てたら?」
 手を出しそうなのを、必死で堪えている顔を見ろ。優しいいつものおちゃらけた顔で今まで通りを装っているんだ。姦欲に惑わされないように必死なんだ。
 いつもいつも何が見えているのかわからない目で一文字に結んだ唇で俺を見上げるくせに。どうして今日は緩み切った口元とうるんだ瞳で見下ろすんだ。紙装甲のパジャマ一枚を身に着けて男の上にまたがるなんて、神経がどうにかしている。本当に男について無知。どういう教育をしてきたんだ。
 おひいさんの親の顔は……知ってるけど。書斎の奥の奥の更にしまわれているアルバムを見たことがあるから知ってるけど、直接会ったことはない。一癖も二癖もありそうな男だった。平凡そうに見えて実際この世の物事を思い通りに動かしている顔をしていた。そんな男に育てられてもなお、知識でしか肉欲の恐ろしさを知らないのかもしれない。そのために相手の感情なんて考えないし、顔がかわいけりゃあ男だって穴にされるのに。喰ってしまおうか、この女。
「カエデ、手洗いに行ってくる」
「あ、ウン。行ってらっしゃい」
 滑るように椅子から降りて部屋を出ていった。
 ……危なかった。思考が落ちるところだった。無体なことを、嫌がることをするかもしれなかった。思考の恐ろしさに反吐が出る。たかだか一時の欲に支配されて嫌悪の対象になるところだった。あんなに優しくて可憐で甘い声で名前を呼んでくれる、俺をクズと残飯と体液と汚泥から拾い上げてくれた天女を汚すところだった。羽衣を奪って手元に置くよりも、口説き落として連れてってもらう男になりたいんだ。死んでも死にきれないところだった。
「お前そんなとこで寝てないでベッド行けよ」
「エッ!? いつの間に帰ってきた!?」
「……今帰ってきたでしょ」
 おひいさんが出ていったのと反対側から帰ってきた二人。怪訝そうな顔でコートを脱いで「飯買ってきたぞ」なんて言う。いつも通りの日常だ。
「おせえよおおおおおお!!!!」
「はあ!? ちょ、抱きつくな気色悪い! なんだお前!」
「うるせ~~~~!! おま、おまえら帰ってくんのおせえんだよ!! なんなんだよ! おせえよおかえり腹減った!!」
 困惑してるけど知ったことか。ルカに縋りついてきったねぇ顔で泣いてやった。仕事以上に随分と気を張ってたみたいで安心したら腹も減るし、これでまた一人にされたらたまったもんじゃない。本当に。
 がっしりとしがみついているうちにおひいさんも戻ってくる。低体温みたいな顔をしてぱちくりしていた。
「……何してるのお前たち」
「なんか急に抱きついてきたんだけど~~オレら仕事帰りなのに」
「ただいま。カエデになにもされなかった?」
「うん、体温が高くてちょうどいいゆたんぽだったよ」
「「あ~~」」
「察した」
「これはよく頑張ったよカエデ」
「一番大きい肉はカエデの分だね」
「え、まって何の話?」
「留守番頑張ったねって話」
 そう、俺頑張ったワケ。どんなハニトラにも屈しないし、侵入者だって誰一人いないし完璧な留守番を完遂したんだワ。もっと称えろこの俺を。
「よくわかんないけど、お疲れ様。ありがとね、カエデ」
「もっと褒めて!!」


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改稿してから載せようと思ったけど、どうしようもなかった。

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