午前六時、隣人のレールを歩く
柒・伍番街本編時空
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薄靄のフィルターがかかる午前六時。半自宅と化した千代田邸で皇は目を覚ました。傍から微かな呼吸が聞こえる。この家で早い時間に起きることはないため、現実感は薄かった。白い息が漏れる。
喧騒もなく、規則正しい物音だけが律動していた。自宅とよく似ているが何かが決定的に違う静けさ。理由はわからない。だけれど嫌ではない。布団を剥いだ。
本来、千代田邸で眠った翌日は遅く始まる。墨がいるからと甘えていることが大きい。自分が頼んだデッドラインになれば、布団を強制的に剥がされる。そうでなくとも物音や朝食の香りで目を覚ますことができる。他人の活動音は心地いいものだ。
今回はなかでも珍しいケースだった。日の温度を浴びない廊下を素足で歩く。家中の窓をひとつひとつ開けて回った。墨はルーティンに則ることが好きで、起きれなかった日は、1日抜け殻のように何も活動できなくなる。先に皇が行動しておくことで、墨の予定を整えてやるのだ。それもあくまで補助に過ぎないのだけど。
靴下を裏返して、シャツを畳んでネットに入れる。繰り返し。水栓を開いて蓋を閉める。忙しない鳴き声を置いて草木に水をやり、鏡を拭いて服を選んだ。今日は寒いので揃いのパーカーを選ぶ。裏起毛なので肌触りも気にいるだろう。合わせて髪留めも置いておく。靴下とハンカチも忘れてはいけない。
そうしてルーティンと自身の準備を終えたらもうやることはない。ソファに体をおろして、腹の空きに目を向ける。化粧をして美しくなることは好きだが、ソファを汚してしまうことは難点だった。
数分して我慢できなくなった皇は、ようやく墨を起こしに向かった。
墨は寝起きが悪い。特に無理やり起こされると相手が誰であろうと腕や足を振り回して抵抗してくる。起こす側はお前のルーティンのために善意で起こそうというのに、睨まれ脅されて大迷惑である。理解しているから無理に起こそうとはしなかった。しかしまあお腹は減るものだ。外廊下に面した襖を開くと冷たい風が一度にやってきた。もぞりと布団の中に頭を引っ込める。
「お腹減った〜〜起きてよ〜〜」
「ん〜〜」
布団の真横の畳へ正座すると遠慮もなく揺さぶった。当たり前だが起きるわけもない。立ち上がり、あたりに散らばった昨夜の残骸を拾い集める。ついでに体温の失われた一組の布団を押し込んだ。宴会にも使われる大広間は、もはや墨の眠る布団しか残らず、皇は布団の端を墨の体の下へと方々から追いやった。和室の端から端まで布団で巻いてしまうのだ。
「起きて〜巻き寿司にするよ〜」
「ぅ……!」
押して押して。壁に激突して逃げ場がなくなるまで繰り返される。端まで到達した頃、皇は巻き布団に跨った。
「ほら起きろ〜!」
ここまで動けば指先から感覚を得られる。墨の頭もおよそ目を覚ましてくる頃で、皇が自分の上に乗っていることを自覚していた。起きねばたいそう面倒臭いことになると理解しているものの、瞼だけが一向に開かない。
この状態が続けば、腹を空かせた皇が電子レンジを爆発させてしまうというのに。一体何度、整ったキッチンとお別れすることになったのか。しようのない、ぱしぱしと水分の少ない瞳を持ち上げる。
「起きた〜〜?」
「おきたおきた」
布団から滑り落ちた皇は墨の髪を手櫛で整えた。なされるままだ。
「今日出掛けようよ〜〜」
「寒いからヤダ」
「いいじゃん。あたしのために今日の分の仕事終わらせたんでしょ?」
調子の良いことを言って、皇は部屋を立った。
「皇のためじゃないが??」
「ツンデレだなあもう!」
「違うが??」
墨もその後を追う。間違った評価を広められては困る。別に皇のためじゃない。遺憾の意。朝一提出の書類が残っていただけなのに。
遠くで脱水完了の知らせが鳴った。
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午前六時の風景が好き。透明感のある微睡に揺蕩っていてほしい。
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