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私の恋はオランジェット

柒・伍番街???時空
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 好きだと言うには、相応しい可愛らしさや美しさが必要だ。言って良い人間と悪い人間は必ず別れていて、頂点に立っているのが渋谷皇だった。
 学校という狭いコミュニティのヒエラルキーは渋谷を中心に成り立っている。身姿は常に人垣に埋もれ、最底辺は全像を見ることすらできない。立場の差がありすぎる。許されるのは僅かに漏れ出す笑顔の端くれ。笑い声を聞くたびに、惨めに思えてしょうがない。
 天女の笑顔は幻想の紐だ。天から垂れる紐の起源を知ろうと上を向けば、途端に太陽の光で目が焼かれてしまう。お前は相応しくないのだと言われているように、地底でしか生きられないというように。悶絶して苦しんで、きっとすぐに憎むようになるのだろう。知らなければ幸せだったのに。それが、はじめの感想だった。
「ただいま」
 自宅の扉を開ければ醤油の香りが漂ってくる。
 母が料理をする傍ら、父は居間にふんぞりかえってTVを見ていた。昭和の家庭のようだ。兄はいつも遅い。父が寝てから帰ってくる。羨ましい。同じ親から生まれているのに、あんなに自由だなんて。
「最近学校はどうだ?」
「うん、楽しいよ」
「お前の学校には素行不良の生徒はいないだろうな」
「いないと思うよ」
「あら、あなたどうしたの?」
「上司の子供が最近反抗期だって聞いてな。髪を染めたり色付きのコンタクトをつけたりしてるんだと。お前はそんなことしてないよな」
「うん、してないよ」
「若い奴らは自分の体のことをなんだと思っているんだ全く」
 変わらない会話、つまらない食事。両親は子供が相槌しか打たないことに気づいていないのだろう。繰り返される毎日で、ただ二人のようにはなりたくないと漠然と考えていた。

 学校は父が言うほどまともなところではない。素行不良の生徒なんてどこにでもいる。髪を染めている人も、ネイルをしている人も、カラコンをしている人も、化粧をしている人だっている。制服を着崩している人だってもちろん。だけれど彼女たちの方がいつだって楽しそうだ。
 消しゴムを落として、拾ってもらった。化粧が特に華美な子だった。笑顔で、可愛かった。
 代り映えのない日常を終えて、正門をくぐる。工事が始まったらしく、朝の道は封鎖されていた。繰り返される騒音を聞き続けたとて、通れるわけではない。回り道をして帰ろうか…………いや。
 すこしだけ、寄り道してもいいんじゃないか。少しだけなら。鼓動が大きくなって、進める足が止まらない。だんだんと速くなる。多分いま、悪い子だ。だけど、悪いとわかってるのに足が止まらない。ちょっとだけ、ちょっとだけなら。だって誰も見てない。
 たどり着いたショッピングモールで、急かされながら洋服屋さんを回る。制服の上からカーディガンを羽織った。
「かわいい、けど」
 何か違う。何が? 鏡を見た自分はどこか垢抜けないままだ。くるくると回って確かめてもわからない。そのうちに鏡の向こうに女の子が通る。服の先からわずかにのぞいた手。サイズの合わないカーディガン。なるほど。
 ハンガーを戻し、改めて選ぶ。ワンサイズ上がかわいいのだ。まあ、買って帰ってもバレて捨てられてしまうから試着するだけになるけれど。ため息をこぼした。
「こんにちは! これかわいいですよね〜! よかったらあててみますか?」
「え、あ……はい」
 すでに試着したとも言えず、流されるまま会話が始まる。いくつかのアウターを試着して、楽しい気分と購入できない罪悪感を抱える中、店員は在庫品の棚を開けた。
「いいですね〜! 実はこれ他の色もあって、これとかも」
「あ、これ……」
「これですか!? 一度つけてみましょうか!」
 当ててもらったリボンはとても可愛くて、気づいた時には軽やかな購入メロディが聞こえていた。
「ありがとうございました~!」
「か、買ってしまった……」
 情緒のジェットコースター。全力疾走だった。
 頬に熱を溜めたまま、寒空の下へ踊りでる。ぽつ、ぽつと歩を進め、気づかぬうちに自宅に帰っていたのだろう。窓の外は深夜である。朧げな記憶では、夕飯を食べていたし入浴もしていた。だけれど、脳裏ではポップなミュージックと共にリボンが跳ね回っている。
「これが……うかれぽんち」
 布団を被って強く目を瞑る。だらしない口元は隠せそうになかった

 翌日の朝である。いそいそと布団から出、身支度を終えて普段よりも30分は早い雲ひとつない晴天。買ったリボンをつけるか否か、鏡の前で向き合っていた。両手に収まる小さなティアラ。さながらこの部屋は王国だ。白馬の王子様もゴッドマザーも現れなかったけれど、どこかで待っているのかもしれない。そうして、浮かれていたのが悪かった。
「あれ、今日早くね? てか何持ってんの?」
 部屋の扉は開いていて、後ろから兄が覗いていた。
「どしたそれ。学校につけてくん?」
「な、なんでもない! あっちいって!」
「は? なに、え」
「もらったの!」
 血の気が引いて、気づいたらリボンをポケットに押し込んでついでに兄を追い出していた。何か言っていたけれど聞いている余裕もなく、部屋の扉を閉めて座り込んで耳を塞いだ。扉は沈黙を保っていたが、すぐに階段を降りる音と飄々とした出かける挨拶を通した。
 嘘をついてしまった。罪悪感が顔を出す。自分が選んで、自分で買って、大切にしたかったのに。
 泣くのはさらに惨めになる気がして、やめた。気合いで押し留める。姿見の向こう側で制服を着た少女が立ちあがる。そばかす、切れ長の瞳。ブスとは言われないまでも、可愛くはないだろう。悔しい、悲しい。もっと可愛く産んでくれればよかったのに。
「……がっこういこ」

 平凡な一日だ。太陽に背中を押されながら学校へ行く。影はいつも自分の前にいる。時間割通りの授業、見飽きた先生、年度が変われば縁の切れるクラスメイト。同じ日常。なんのために生きているのだろう。大した喜びもなく、繰り返し他人と同じ道をなぞることに、人格なんてきっといらないはずなのに。感情なんてもの、なければいいのに。
 今日もまた、日が暮れる。

 まだ工事が続いていた。いつ終わるのだろう。確認する元気もなくて踵を返した。冷たい風が肌を触り、鼻が震える。耳障りな鼻息を数度繰り返し、ティッシュを取り出そうとポケットに手を入れる。
「あ」
 リボンが、ない。
 体育の前に落とさないよう机にしまったのだった。考える前に、足は学校へと向かっていた。明日でもいい、別に誰が盗むわけでもない。父より遅く帰って怒られるより、そんなに大事なものか。帰れ、早くと頭の中で声がする。
 教室に着いた頃には、息が上がっていた。
「あった……」
 記憶通り、愛らしい状態で主人を待っていた。両手で持ち上げる。夕日に照らされた今だけは、自分たちの境目がないように思えた。
「このリボンかわい〜〜!」
「っ、え……わっ!?」
 いつ来たのか。背後からひょこりと顔を覗かせたのは、麗しの生徒会長。
「しぶや、さん?」
「皇でいいのに〜。同じクラスだし仲良くしよ?」
 今まで関わることはなく、相対するのは初めてだ。整った目鼻立ち、モデルのような身長、細い手足、なにより特徴的なグラデーションの髪。人好きのする笑顔。心の奥底から醜い感情が這い出て、なんとなく目を逸らす。ぎゅうとリボンを抱え込んだ。
 渋谷は大きな猫目を少し見開いてから、ぱちくりと瞬きする。口角をきゅっと挙げた。
「ねえ、せっかくだから付けてみようよ!」
「い、いま!?」
「うん! ほら座って座って!!」
 少し強引に、しかし優しく椅子を勧められて流されるままに席に座った。いそいそと取り出された鏡が机に置かれる。天女が下婢を着飾るなど、現実では起こり得ない。
 随分長い間人に梳かれていなかった。触る手つきは柔らかく、規則的に繰り返される。夕陽はまだ降りていない。
「急に話しかけちゃってびっくりしたよねえ。でも見たことない幸せそうな顔してたからさ、つい」
「そんなことないよ、私も渋谷さんがいるの、気づかなくて」
 桃色の唇からのんびりと言葉がながれている。滑るように始まった会話は途切れることがない。他人と足並みを揃えることが上手いようだ。相手に主導権を握らせて、ゆっくりと自分のペースに変化させてしまう。かくも見事であるなら調教師に向いているのではなかろうか。
「綺麗な髪だね。肌も白くてもちもちだし、お化粧したら映えるとおもってたんだ。でもあまりやったことない?」
「親が……厳しくって」
「心配してくれる親御さんなんだね」
「……うん、そうだね」
 しんぱい。単語ひとつで夢のあわいから弾き出された。ああやはり、幸せな家庭で生きてきた違う人間なのだと突きつけられたようで。だけれど。
「でもしんどかったりするよねえ」
「え?」
 櫛を置いた。
「人からの心配とか思いやりって自分が求めてなかったら重荷になると思うんだ。潰れそうになっちゃう。そんなこと考えたらいけないのにって自己嫌悪もついてくる」
 変わらぬ口調で話は続く。取り出された色とりどりのなか、まばゆいオレンジを選んだ。選ばれなかった虹色はそっとポケットへ戻される。閉じた瞼の奥で、いったいどんな景色をみてきたのだろう。暖かい声音の裏でどれだけの数、涙をこぼしたのだろう。
「あなたのために言ってるのよって言われると、断りづらくてかなわないし。反対すると不満がられる。あたしは心配よりも信頼がほしいのにさ」
「渋谷さんも、そういうことあるの?」
「あるよお! これ家族の話以外でも結構あってね。友達とか先生とかからよく言われる! でも行動するのもあたしだし責任を取るのもあたし。周りは私が失敗したら助けてはくれるけど代わりに責を負ってくれるわけじゃあないんだよね」
 黒板に夕日がかかっている。刻一刻と、日は沈む。
「お母さんが、今はそんなもの使わなくて良いのよって言うんだ。おしゃれなんて今は必要ないって。いつか必要な時にやれば良いのって言う。何色気付いているんだとか、お前には似合わないって言われるの。何やっても否定されて、否定されない行動をずっと選んできた。本当は寄り道もしたいし学校休んで海とか行ってみたいしお化粧もしたいし、カラオケも行ってみたい。必要なことかどうか、私が選択したい」
「いいね! 言葉にしたのは初めて? 大事なことはもっともっと口にするといいよ。いつでも見返せるようにノートに書くのもいい。他には?」
「ライブとか行ってみたいし、恋人も作ってみたい。可愛いお洋服も着てみたい。休日もお出かけしたい……」
「必要なのはさ、否定される勇気だと思うよ。否定されるのって、怖いし傷つくと思う。でも一瞬傷つくことと一生悩み続けることなら、あたしは傷つくことを選ぶ。選んで生きてきた。あたしは誰かに強制された幸せを、幸せだと思えないから」
 いま、どんな顔をしているのだろう。
「わたし、渋谷さんのことなんでもそつなくこなせて良いなあって思ってたよ」
「え〜そんなふうに見えちゃう? うれし〜!」
「でも色々な否定とか失敗と向き合って強くなったんだね」
「うん、まだこれから強くなるチャンスはたっくさんあるよ。はい、できた」
 鏡の中に写るおんなのこは、名前も知らない髪形だった。この髪型で渋谷の隣にいられたら。手をつないで放課後に出かけたら。願ってやまない。
「かわいい……わたし、こんな……っ」
「せっかくだから写真撮ろうよ! わらえわらえ!」
 激しく燃える太陽と、天女様。今までで一番かわいい、わたし。
 音のないシャッターが切られた。

 結局渋谷とはそれきりだ。翌日、転校したと先生が言っていた。
 日常は少しだけ変わった。あのままの髪形で家に帰り、珍しいと散々兄に揶揄われたが、すぐに何も言わなくなった。父からは距離を置かれるようになった。元々仲が良いわけでもなかったので、特に気にならなかった。呪縛なんて、勝手に自分が重くとらえていただけのようだ。兄とは仲良くなり、髪を結ったり彼女の話をした。写真を現像したのも兄である。

 一生の宝物でお守り。肌がシワクチャになっても、記憶の中の太陽は全く色褪せない。青春の代名詞、同じクラスの女の子。何度だって思い返せる。
 あまりにも田舎者で、恋どころか化粧も知らず、特筆した技能もなかった。でも、あの一瞬が、人生で最も燃え上がった瞬間だった。
「おばあちゃん! いる~~!?」
「はいはい、台所にいるわよ」
「チョコだ! チョコ!」
「チョコ! おばあちゃん!」
「ちょっとあんたたち! 靴を片付けなさいってば!!」
「今日も元気ねぇ」
 白くなった髪の毛と、ほのかな橙色がゆっくりとキッチンをあとにした。


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渋谷皇と出会った一人の少女のお話。本編でもいけるし番外でもいける

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