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努力がしたい

どうも、RMUに所属させて頂いている、一です。一と書いてにのまえと読みます。二の前なので、一になります。

今日は、タイトルに含まれている「努力」について考えていきたいと思います。

努力とは?

さて、努力をしたいとかなんだとか言う前に、まずは努力という言葉の定義について調べてみました。
コトバンクによると、以下の通り定義されています。

力をこめて事をすること。あることを成し遂げるために、休んだり怠けたりすることなく、つとめ励むこと。また、それに用いる力。

https://kotobank.jp/

つまり、目標を定め、継続的に何かに対し注力すると考えて大筋問題無さそうです。

ここまで読んで下さっている皆様にも是非伺ってみたいのですが、努力したこと…ありますか?

少なくとも、定義通りの意味で言えば僕はありません。

「努力」したことが無い

わざわざ見出しにした上に鍵括弧を付けてまで強調してますが、努力の意味する通りの行動は、26x365+α日という長い日常の中で、一度も取ったことがありません。

恥ずかしながら学生の頃から勉強なんて碌にせず、受験という普通であれば大抵の乳呑み児が最初に執り行われる競争を斜に構えて過ごし、結局まともに準備も参加もせずに終わりました。

ここで終われば良かったのですが、僕の中二病は大学生活という長いモラトリアムにおいても終焉を迎えることは無く、結局2、3社を受けた程度で終わりました。
ちなみに結果は、皆さんお察しの通り落選です。
みみっちくも卑小な僕の自尊心の為に弁明しておくと、一応最終選考までは行ったのですが、当日に寝坊してしまい先方からの着信で辞退の連絡をしました。もう1社はバックレました。社会の汚物ですみません。

結局卒業してから2ヶ月ほど経ったある日、唐突に今の業界に強い興味が湧いたため小さな会社に入社しました。
一番最初に携わった案件で必要なスキルが色々足りていなかったので、その頃が一番勉強した気がします。
ただ、努力というよりは勉強止まりです。何故なら、サボったり、遊んだりもしていたからです。

それから今に至るまで、小さな勉強は何度かやってきたとは思いますが、努力と言えるほど頑張ったかと聞かれると、はいとは言えません。
僕の頑張りなんて、グラウンドに「一意専心」のような横断幕を下げて毎日必死に練習してる部活動に比べたら、砂場のおままごとの延長のようなものだからです。

「努力」がうらやましい

ここまで散々、僕のダメダメなこれまでを語ってきましたが、結局はコレに尽きます。羨ましいんです。

「お前もやればいいじゃん」
いや、そんなの分かってるんですよ。
意志さえあれば今すぐ出来るんです。でも、出来ないんです。
なぜかって?そんなの、自分に甘いから以外の回答はありません

自堕落な人間をなめてはいけません。たった週に1回だけ、知り合いと勉強しようぜ!って約束をしても最近はサボりがちです。
自分のことながら、誠に遺憾で、忸怩たる思いです。

というわけで、そんな羨ましいとか恥ずかしいという気持ちをずっと抱えるぐらいなら、自分も努力出来るように努力しようと思います。

努力をする努力

今回のメインテーマです。ようやく鬱陶しい鍵括弧が消えました。

簡単に言ってしまうと、自分が自信をもって「俺は努力してる!」と思えるように、

  • 目標を考える

  • 継続可能な勉強やルールを考える

  • 努力という言葉をソフトに考える

この3つをやっていこうということです。

目標を考える

これは非常にシンプルです。短期でも中期でも長期でも何でもいいんですが、とにかく今から目指す先を決定します。

僕で言うところの、まぁ30歳頃のキャリアビジョンでしょうか。書いててなんですが、1ミクロンも思い浮かびません
まぁ、これについてはイメージすることが大切だと思って気長にやります。夢を見るだけならタダですからね。ツケは溜まって行きますが。

継続可能な勉強やルールを考える

これも読んで字の如くと言った感じですが、用法容量の定義とも言えます。
やっぱり人によって継続可能な時間や量、条件は違うと思うので、僕も僕に合った努力の内容を定義してあげないとダメかなと思うんですよね。

果たして自堕落極まった僕砂場のおままごとを逸脱した内容を続けられるのかは甚だ疑問視されるところではありますが、これも言うだけならタダですからね。
尤も、砂場のおままごとを逸脱しない定義を果たして努力と呼べるのかもこれまた疑問視されるでしょうが。

努力という言葉をソフトに考える

これは前述の「継続可能な勉強やルールを考える」の延長線上にあると言えるのですが、結局どれぐらい頑張れば「努力」になるのかということです。

よく寝る間も惜しんでという言葉を耳にするかと思いますが、あれって非常に、非常に非効率的だと常々思ってます。

睡眠時間を削ることがどれだけ自身の能力低下を招くか、また能力低下だけに留まらず身体的リスクがあるのかは、最近になってですが散々言われています。
「好きで好きでしょうがなくて、気付いたらそうなっちゃってるんだよ」という一部の天才を除いて、避けるべき事態とも言えます。僕もそんなこと言ってみたかったです。

そうではなくて、常識的に、普遍的に、1日のうちの自由時間がこれぐらいで、そのうちのどれぐらいを勉強等のいわゆる努力的行動に充てれば「努力した」と言えるのかを考えようということで、逆説的に「息抜きの時間を考える」とも言えるでしょう。

普通に考えて、無理じゃないですか?毎日毎日息抜きもせずに勉強って。
司法試験を受けた方とか、東大や京大を受験した方から1日に1x時間勉強したというエピソードを聞くことがありますが、到底真っ当な精神状態で臨んだとは思えないです。輪廻転生の際に三途の川で石の山を延々と積み上げてた記憶でも残ってたのでしょうか?
尊敬はしてますが、やっぱり僕のような凡人には真似出来ないなと思います。

というわけで、定義通りに休まず怠けずではなく、休んだり怠けたりしながらだけど凡人でも出来るぐらいの努力ってどれぐらいなんだろう?というのを考えたらいいんじゃないかと思った訳です。

湿っぽくなっちゃいましたね。間違えました、長くなっちゃいましたね。すみません。

最後に

うだうだと書き綴ってきましたが、結局努力なんて人に見られるものでもないし、最終的に自分が納得できれば良いと思うんですよね。

人によって、どのレベルから努力と捉えるかは異なるかと思います。
今回は、僕にとっての努力ってどれぐらい頑張ることなんだろうな~と疑問に思ったので、こうして文字におこしてみた次第です。

一応、2,000字ぐらい書いてみて、自分にとっての努力が少し分かったような気がするので、決して無駄では無かったと思います。

尤も、考えたところで果たして僕が努力出来るのかは分かりませんが…
気長に頑張りたいと思います。よろしくお願いします。

拙文ではありますが、ここまで読んで下さった方、ありがとうございました。

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