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痛みから逃げる

人間はあらゆるものから逃げる権利がある。
白旗をあげたり、しっぽを巻いたりして、その場を置いて、逃げる権利とか負けを認める権利がある。

けれども、痛みから逃げることは出来ない。
強い痛みを感じたら、痛みから逃げるのではなく、生活のいろいろな手間から逃げて、ベットで養生するしかない。
少しでも痛みがおさまるように。

私はそれをする度、自分が生活のいろいろな手間の方から逃げたくて、痛みを言い訳にしているのではないかと思ってしまう。
痛みは目に見えないからだ。
少しでも目に見えるようにするためには、私が苦しみもがかねばならない。しかし、私は苦しみもがくほど強烈な痛みに襲われている訳ではない。

ほんとうに、そうだろうか?

私と同じだけの痛みをもっている人の中で、「痛い痛い痛い痛い」と叫び声をあげている人は今日もどこかに居そうな気がする。それができる人が心から羨ましい。

私の痛みは骨盤の複雑骨折から来ている。
それがうっかり脊髄を這い上がり、言葉や態度として吐き出されないように、ベットの中でじっと耐えている。
先日、「ただの神経痛くらいで作業を休むなんて」と言われているよ、と教えてもらった。
私の痛みを他人は感じることが出来ないのだから、「ただの神経痛」とひとくくりにされてもしょうがないのだ。だけど悔しい。
悔しい悔しい悔しい悔しい。
痛いって言わないように頑張れば「ただの神経痛」だし、痛い痛いと叫んだって痛みから逃げられる訳でもない。

そんなふうに辛いことがこれまでに何度もあった。
それは現実の痛みではなく心の痛みだった。
私の周りにもたくさんいる。そんな目に見えない痛みから逃げるでもなく、無理やり戦わされて、ぼろぼろになっていくひとがたくさんいる。
現実の痛みだってその大小や機微は誰にもわかってもらえない。
痛みの度合いを判定するのはいつも痛みを感じている自分ではなく、外の何も知らない他人なのだ。
痛みと戦っているだけではなく、その何も知らない他人とも、ときには戦わなければならなくなる。
だから私たちは休息をもたなければならない。
ベットにひきこもって、自分の痛みとだけ対話する時間が必要なのだ。
それで痛みが和らぐわけでもないが、外の何も知らない他人と戦って余計な傷を負うことからは、全然、逃げていい。

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