もしもし?…

 私は私の人生の主人公ではとうになくなっている。筋書きストーリーのない世界の中で、終わることのないエピローグを延々と繰り返している。この空虚な私の生存にどんな意味を持たせられるか。問題はこの点に尽きる。本当にそうだろうか?
 私は私の人生がまっさらなページであったらと思う。誰にも見られず、誰からも書き込まれない。私を見た人間は、私に対してある印象を抱き、それを自らのノートに書きとめる。それが耐えがたい気がするのだ。私の存在を皆の記憶から消してくれと思う。私という存在が、他人の思考の中で、それぞれの観点に応じて、評価され、判断され、分類される。私は他人の印象の中で分解され、ばらばらになる。私はある権力の働く場面において、それぞれの台帳のもとに、私の罪過や痴愚が書き込まれ、断罪される。他人が存在している限り、私は告発におびえ、心穏やかではいられない。
 反対に、私は他人の記憶に書きとどめられたいと思うこともある。他人に認められ、私という存在が私がいなくなった後も、何らかの形で他人の中に留まり続けたいと希う。私は他者の存在無くして私の存在を確かめうる術を持たない。しかし、その他者の存在が、時に私の尊厳や私のかけがえのないものを踏みにじる。他者からの評価を求める半面、他者からの評価を恐れる。承認され、認知されたいと思う反面、忘れられ、記憶から消されてしまいたいと思う。他者を求めるがゆえに、他者に傷つけられてしまう。このナイーブさをどのように処理すればよいか。私はその手前で躓いて、他者に接続する回路を失う。孤独が何らかの解決を用意するか。私は誰にも届くはずのないモノローグを延々と続ける。他者から見られることによって照明されるはずの私は、次第に私の輪郭を失って、モノローグだけの存在になる。他者の間に存在しない「私」とは、事実上存在しないも同然だ。他者に奪われた「私」を取り返そうと、内側に籠っても、そこに「私」が復元されるわけではない。
 私という存在は一本の電話音声に縮減される。私の存在は一枚の表にまとめられる。xx年x月中退。○○年〇月入社。「…xx年x月から○○年〇月まで期間がありますが、この間、何かされていましたか?」「…特に何もしていません」「…」「もしもし」「…」「もしもし?」その間、一体私は何をしていたのか。会話の相手はきっと有意義な、社会にとって前向きな回答を期待していたのだろう。残念ながら、ただ「生きていた」としか私には答えようがない。ただ「生き」ていることが、こんなにも恥ずべきことなのか。こんなことなら、私はいっそ、誰の記憶にもとどまらない、遠いところへ隠れてしまいたいと思う。ただ生きているだけで何らかの理由を求められ、断罪され、辱めを受けるくらいなら、私は他者との関係を一切経って、誰にも見つからないところで、心穏やかに過ごしたい。しかし、社会の方はそんなささやかな望みも許してはくれない。どれだけ世界から逃れても、社会は私の存在を暴き立て、恥辱の中へ晒しだす。結局、分からないのだ。私が何をしていたのか、私が何者であったのか、私自身、それにはっきりとした回答を与えることができない。理解できないものは、存在しないし、存在すべきでないのだ。社会の側は理解できる範囲内でしか、個人を評価しないし、評価できないものは、存在ごと抹消する。空白期間。その間私は存在しないし、生きていなかった。私は一度死んで、生き返ったのだ。私はこれでもう何度目かの仮死状態とそこからの蘇生を経験する。他者からのまなざしがなければ私は存在しないが、そのまなざしが、反対に私の存在を根本的に消去する。
 他者のまなざしが私の存在を奪う。ばらばらになった私は他者の中にそれぞれの観点に応じて記録され、書きとめられる。私とは一片のリストだ。私はリストに記された自分の経歴を見つめる。xx年x月○○小学校卒業、xx年x月株式会社○○入社。それ以上でも、以下でもない。他人が見て理解できる私とは、それだけの存在。その記述の羅列に、何らかの意味なんてあるだろうか。いつも行き当たりばったりに生きてきた。学校をやめたり、働きはじめたりしたことも、確たる理由があったわけではない。気が付いたら何かをやめていて、気が付いたら何かをはじめていた。私が私の人生に何らかのまとまった意味を汲みだすのは困難で、まして他人にそれを説明することなどできない相談だ。私が私の行動の主人でありえたことはなかったし、きっとこれからもそうなのだ。私は私の人生の主人公ではなくなり、環境によって影響される変数の一つになる。私が世界に現れる時、そこに存在するのは、様々な因子からなる変数の組み合わせ以上の何ものでもない。私が他者に出会うことなどあるだろうか?私が「私」に意味を見出すことなどできるのだろうか?もし私が変数の組み合わせ以上のものでありうるならば、何らかの意味と目的を持ってこの人生に登場しなければならない。しかし、他者がいないがゆえに根本的に意味が欠落した私にとって、何らかの目的を持った合理的主体であることは不可能だ。私は合理的主体でありえないために、非合理的な判断を繰り返し、その場限りのつじつま合わせを演じては、恥辱を感じて引きこもる。私は分散するか溶解する。私は他者から見られる限り私でいることはできないが、他者に出会わなければ私が在ることもできない。在り方が問題なのだ。

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