雑記(馬)

 春が来た。というより、もうじき5月である。街を歩くと大学生の集団によく出くわし、そういえば新歓の季節なのだと気づかされる。かくいう私も長い冬眠から覚めて…などということはなく、相変わらず殻に引きこもったままである。駅前の商店街を歩くと、人の群れに圧倒される。たいていはグループを為しており、学生サークルらしき集団、子供連れ、カップル、酔っぱらったサラリーマン、夜更かしの中高生…などから成る。その間を、独り身の人間は、足早に、伏し目がちに、そそくさと駆けてゆく。かくいうわたしもそういう独り身で…世間から孤立した、仲間のない人間である。
 仕事帰りのサラリーマン。平日は仕事に忙殺され、職場と家を死んだように往復する日々。休日は寝転がってスマホを開いて現実をなるべく忘却していよう。そうこうするうちに、気づけば月曜日になって、また週末になって、1週間が過ぎて、1年が過ぎて、気づけば30になってました…っていう本当にくだらないジョークみたいなのが私の人生なんで、どうぞ、誰か笑ってやってください…そうでもしてやらないと、どこにも身の置き場がないんで。
 そういうくだらない話を延々と頭の中で繰り返しながら私は府中に来ていた。そんなことを思ったのも、昔の職場が府中にあったからかもしれない。私は吸い込まれるように競馬場のゲートをくぐった。
 府中と言えば、刑務所…ではなく、競馬場を思い浮かべる人も多いのではないだろうか。府中には競艇場、サッカー場もあるから、ギャンブラーにとってはアトラクションに事欠かない。私も、自分の人生のギャンブルに失敗したんで、今度は馬にでも賭けてみるか、という気になったので、人生で初めて競馬場の門をくぐった訳である。
 表面上、無味乾燥な私の生活にとって、競馬は未知の領域だった。人生経験に乏しい私は、なんだかヤバそうという理由だけで、競馬場を避けていた。
 しかし、事ここに及んで、そんなことを気にしていられる身分ではないことに気づかされた。私はもっと早くからいろんな経験をしておくべきだったのだ。
 東京競馬場へは府中本町駅から専用のコンコースが設置されているので、直接西門まで行ける。京王線を利用だと正門になるのか。私はJRからしか利用したことがないので他のアクセスについてはよくわからない。
 競馬場というと、私は、渋いおっさんたちが競馬新聞を腰に差して、怒声を上げながら馬券を振りかざしているシーンを想像していたが、そんなわけはなく。実際に多いのは、ベビーカーを押した家族連れ、若いカップル、学校の友人同士といった感じで、明らかに若い人が目立つ。私はもっとこう…社会からあぶれた者たちのサバトみたいなのを期待していたのだが、実際にはクリーン、すごくクリーンで健全で、軽やかな楽しみに満ちたところであることを発見した。
 ちょうど私が到着したと同時にレース開始のラッパが鳴った。確か5Rか6Rくらいだったと思う。西門を入った丁度目の前にゴールラインがあり、そこは黒山の人だかりだった。
 私は競馬がこれほど人気だとは知らなかった。指定席はほぼ満席で、立ち見の自由券を購入した人は、座席とコースの間のスペースに黒い塊を為して群がっていた。ブームでもあったのだろうか?これほど普通の人(?)に親しまれているとは。
 レースは最終コーナーを曲がって正面の直線に差し掛かったことろだった。馬群がゴールに近づくにつれ、歓声が高くなる。最後のゴール直前になると、どこからか絶叫が聞こえ、観客の囃し立てる声で場内は騒然となる。
 私は自分の血が沸騰するのを感じた。別に応援している馬があるわけでもないのに、場内の空気感に圧倒され、私は息をのんだ。それは冷やかし半分の野次馬的好奇心からくるのでなく、勝負師の血、我々の情念の奥深くに埋め込まれた賭博師の本能を呼び起こすがゆえであった。われわれは生まれながらにギャンブラーである。
 客席向かって正面のスクリーンに順位が映し出されると、喜ぶ者、舌打ちする者があり、みなぞろぞろと客席の間の出入り口に消えていく。私もすることがなかったので、彼らに続いて、建物の中に入った。  
 建物内は空港のロビーを思わせるほど広々としていて、天井からずらりと一列につるされたモニターには、何やらよくわからない数字の羅列と、同時開催されている別競馬場の実況中継とが映し出されており、腕を組んで考え込む人、実況の結果に一喜一憂する人が群れを成して見上げている。さらにモニター―下の壁には券売機が設置されており、その数は優に百数十はあろう、場内のいたるところで見かけることができる。券売機にはマークシート投入口があり、馬券の種類、レース、馬番、購入方法(ボックス、フォーメーション、流しなど)を記載したマークシートを読み取らせることで、馬券を購入することができる。私はよくわからなかったので、とりあえず単勝で、それほど皆が購入していない、穴場の馬に賭けることにした。
 レースは大体35分くらいの間隔で行われ、私が来た日は全部で12レースあった。レースの間は基本的に暇になるのだが、競技場裏のパドックと呼ばれるところで、出走前の馬の状態を見ることができる。テニスコート4面くらい広さの楕円形のコースを厩務員に引かれた出走馬が何周かぐるぐると回るのだが、1階のかなり近いところでは手が届くほどの距離で(実際に手を伸ばしてはいけない)間近に馬を観察することができる。
 私は馬の迫力に圧倒された。引き締まった筋肉は体から浮き上がり、立体的な陰影を所々につくり出して馬の存在をリアルに強調する。丁寧に撫でつけられた毛並みは艶やかな光沢を放ち、足を動かす度にその下の筋肉と共に波のように盛り上がり、模造品ではない生きた動物の充溢感に気づかされる。私は馬の美しさに魅了されていた。するとどこからか乾いた、香ばしい、饐えた匂いが立ちこめてきた。それは馬の発する汗の匂いだった。私は動物のたてる匂いが本来香ばしく感じられることを発見した。
 私は午後のレースから賭けに参加した。しかし、なかなか当たらない。それも当然で、競馬のことを何も知らない素人が適当に馬券を買ったところで、そもそも当たるはずがないのは自分でも予想していた。しかし、私は満足だった。競馬場の熱狂した空気、間近で見られる馬の迫力、勝負師たちの緊張などが、私を酔ったようにさせてその場へ没入させていた。
 その日のレースも終盤、たしか11Rだったと思う。それまで負け続けていた私は、まあこんなものだろうと諦めて、勝敗にはこだわらずに純粋にレースを観戦することに興味を移動させていた。レース開始のラッパが鳴り、ゲートが開いて一斉に馬がスタートした。私が賭けた馬は8番で6人気であった。最初馬群は固まっていたかに見えたが、しばらくすると先頭の2頭がレースをリードし、1馬身ほど離れてそれに4頭ほど続き、その後ろに中間集団がまとまって、3馬身ほど開けて一番後ろに出遅れた馬が2頭続いていた。詳しい順位は分からなかったが、私の馬は数多い中間集団に埋もれてしまい、先頭からはかなり距離があるようだった。
 私はその時点でレースの結果はあきらめ、どの馬が一位になるか想像していた。やはりレースをリードしている先頭の馬だろうか。あるいはその後ろの集団の馬が巻き返すだろうか。馬群は最終コーナーを曲がって、最後の直線に差し掛かっていた。すると最後の追い込みだろうか、騎手は遮二無二鞭を入れ、馬群の形は大きく崩れ始めた。最初先行していたかに見えた先頭の2頭は次第に勢いを失い、程なくその後ろの集団に追いつかれた。と思ったら、今まで後ろのほうで固まっていた馬が、最後のコーナーで外側に駆け上がり、その勢いでぐんぐんと前の馬を追い抜いて行った。私はちりちりと頭の中で音が鳴るのを感じた。あの猛烈な勢いで巻き返してくる馬は何番だろう?正面の電光掲示板には中継映像と1から3位までの順位が表示されていた。私が立っている位置からも直接見えるところまで馬群が近づいてきていた。歓声は次第に怒号を含んで大きくなった。私は中継映像を食い入るように見つめた。先頭の2頭はすでに失速しその後ろにいた馬が順位を争っていたが、その外側から猛烈な勢いで追い上げる馬がある。私は馬体のゼッケンを確認した。6番…いや、騎手の足に隠れているが、あれは…間違いなく8番だ…。
 馬群は私が立っているゴールの手前までほとんど来ていた。周りの観客から発する怒号はもう何を言っているか聞き取れなかった。逃げ切ろうとする先頭の馬たち、それを外側から猛烈に追いかける差し馬。先頭の馬か、8番か。私の馬はもうほとんど宙を飛んでいるようだった。地面を蹴る脚のスピードはそれほど早巻されているように見えた。先頭の3位までの馬はほとんど差がない形でゴールした。私の馬はそこに食い込んでいた。問題は何番でゴールしたかだった。
 正面の電光掲示板にはゴール直前の映像がスローモーションで再生されていた。私の馬は確かに首の長さ一つ分だけほかの2頭に差をつけて、ゴールしているように見える。その横に順位が表示された。1位ー8番、2位-4番、3位-2番。私はどっと脳内に汁が溢れだすのを感じた。私は小刻みに揺れ、恍惚とした表情で笑っていた。そうか、これが賭けか、と人生で初めて私は体感した。
 …というのが、中年男の競馬体験記?みたいなものである。まあほとんど何でもないようなことを誇張し過ぎたような感があるが、これを読んで馬に興味を持つ人がいれば幸い?だと思う。私は競馬初心者なので馬のことは何も知らないが、とにかく私が勝たせてもらった馬には感謝したい。これからも馬たちの奮闘を見守りたい。

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