「私」?それって だ れ ?

 私は自分というものが本当に・・・存在しているのか自分に問いかけてみる。しかし、それは、どのような方法によって?私は私の意志を持っている。私は私の個人的な目的に従って、日々の仕事を処理している。私は自分の意見をもって、自分の言葉でそれを表現している。しかし、しかしそれは本当だろうか?自分にに限って言えば、私はその場の状況で私の意志をかえるし、確たる目的など持ち合わせておらず、他人の命令を易々と受け入れる。私の話すことは九割九分他人の受け売りであり、そこに、私自身の発想が含まれることはほぼない。かく程までに私にとって「私」とは、芯がなく、何とも頼りない、掴みどころのない存在である。
 そうであるから、面接のとき「当社に応募した理由は何ですか?」と質問されると、私は当惑するより仕方なくなる。理由とは!この質問をされると私は心の底を見透かされたような気分になり、ギクリとする。そして当たり障りのないあやふやな理由を、あたふたした口調でしゃべりだす。「はい、貴社の、サービスを通じてお客様の課題に寄り添う理念に共感いたしまして…」まったく、なんてことを言わせるのか。言い終わってしまうと、私は赤面し、思ってもないことを言ってしまった恥ずかしさに消え入りそうになる。面接官はほとんど興味なさそうに次の質問へと移る。
 私が何か社会的に意味のある行動をするとして、そこに私の意志が介在する余地などあるのだろうか?常にすでに行為の意味は決まってしまっていて、私はそれを自分の意志であるかのようになぞるだけである。私は急き立てられるように行動に駆り立てられることはあっても、自分の意図の下で状況を支配することはほぼありえない。私は私の行為の主体ではありえないし、私の発する言葉は誰かの意図によってあらかじめ規定されている。このように考えると、「私」といったものは存在しないのではないか?それは何らかのフィクションで、ただ社会的な要請のために一時的に必要とされ強制されている玩具に過ぎないのではないか?
 「私」というものは社会という相互作用の網目からなる結び目の一つにすぎない―――そんな言葉をどこかで耳にした気がする。「私」というものは、何ら確固としたものでなく、ただほんの偶然の間に合わせに拵えられたものである、と。それはそれで救われる気がする。私という存在は空気みたいなもので、どんな同一性の重荷からも逃れて、軽やかに相互作用が生じる場面をすり抜けてゆく。ほとんど幽霊みたいだ。私は存在しない、ゆえに私は存在する?
 私がその場その場の、間に合わせの仮構でしかないとしたら、過去を引きずったり、責任を重く受け止めたりして、自己を思い煩うこともなくなるのだろうか?私の、昔の上司で、年上の女性の方だったが、プロジェクトが炎上しているのにも拘らず、上長との飲み会には足繫く通い、重要な会議の日は必ず欠席する方がいた。私は幾分ムッとしたが、不平を申し出ることはなかった。現代の社会が表面だけの人当たりの良さの優先し、また要請するのであれば、その論理に忠実に従うようになるのは当然の帰結ではないか?私もまた、私というものを分割して、その場その場の状況に合わせて、私という存在を最適化させてゆけば良いのではなかろうか?尊厳を持つ私、責任主体の私など存在せず、私というものは厚みのない条件反射プログラムの一束でしかないのではなかろうか。
 その場に応じて適切な行為の型というものは決まっている。私はそれを演じるだけ。それは別に私でなければならないわけではないし、私のほかにいくらでも替えがきく。ある役割が割り当てられたとして、私がそれでなければならない必然性はどこにもない。私の代わりなどいくらでもいて、私がいなければならない場所はどこにもない。私は場面に応じて条件づけられる、ふるまい方の束であり、いくらでも取り換え可能な世界の部品の一つである。私というものは命令され、演じさせられ、いくらでも交換される。現代社会において、私の個性だとか、希望だとか、欲求だとか、そのようなものはすべて幻影にすぎない。私は他者に求められている個性を演じ、他人の意図に沿って希望を述べ、他人の欲望を欲望する。私は社会の需要によって要請されるフィクションの塊であり、本質的に不要でありながら、間に合わせに必要とされたネジの一本でしかない。
 私という存在が厚みのない表皮の集合だとして、私は他者に対して、あるいは世界に対して、倫理的存在でありうるか?私が何らかの行為をするにあたって、それは条件反射でするのであって、自らの価値観に根差してするのではない。もし、価値観というものを個人が持つことができるとするならば、その存在は自らの行為に責任を負う倫理的存在でなければならない。彼のする行為は条件反射プログラムの結果ではなく、自らの行為の結果を引き受けその責任を担う、自らの運命の主人でなければならない。私はいつからか、私の人生の主人公ではなくなってしまった。私という存在は、相互作用による果てしのない行為連鎖の結果であり、確固とした芯もなく、いくらでも世界へ分散する。私が個であり、主体であり、倫理的存在であるためには、自らの運命の主人でなければならない。悲劇の主人公でなければならない。オイディプスでなければならない。しかし、現在となっては、自分にとっての悲劇を生きることなど、望むべくもない。そこで演じられるのは、どこまでも平板で滑稽な喜劇の繰り返しだ。「私」は悲劇が終わってしまった後の世界を、自分の運命とは関係なく、あらかじめ書き込まれた筋書きに沿って、喜劇の役柄を演じるにすぎないのだ。偶然と必然。私でなくてもよかったことと、私でなければならなければならなかったこと。—この落差。この差をどう説明すればよいだろう。

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