no title②


 朝を迎えて、一瞬息が止まるかと思った。俺の部屋に、髙田雫毅がいる。昨日の記憶は確かに辿れるものの、あれが夢だったと思う自分もいたからこそ、こうやって今もすぐそこにいることが信じられない。

 彼はソファでぐっすりと眠っている。客人、ましてや画面の向こう側の存在なので当然ベッドを譲ろうとしたが、彼は断固拒否で聞く耳を持たなかった。

 人様に出せるような食べ物がなく、買い出しのためメモを残して外に出る。目覚めてすぐドアをバーンと開けたまま出ていく、なんていう突拍子もないことを、あの彼はしないだろう。見ず知らずの俺の家に泊まらせてくれと言う時点で、既に突拍子もないのだけれど。

 スーパーへ向かう道中、本屋に置かれた雑誌が目に入る。髙田雫毅が所属するMerakiが表紙のテレビ誌だ。表紙にいる彼は、控えめに微笑んでいた。

 とんとん、と肩を叩かれた。振り向くと、綺麗な女性がいた。年は20代前半くらいだろうか。面識はないはずだよな、と緊張が走る。

「突然すみません。それ、ご購入されます?」

 彼女の視線は、俺の手元の雑誌だった。

「店員さんに確認したら、それが在庫ラストみたいで」
「ああ……大丈夫です。むしろいいですか? 触っちゃってて」
「全く気にならないです。表紙の人たちが好きで手に入れたくて。数軒回ってきたところだったので、本当にありがたいです」

 お互い軽く会釈しつつ手渡した。去り際には深くお辞儀をして、レジへと向かっていった。そのときに見えた、彼女のバッグについたストラップ。アルファベットのSが印象的で、モチーフは緑色。おそらくだが、髙田雫毅のファンだろう。言わずもがな彼のイニシャルはSだし、メンバーカラーは緑なのだ。

 活動休止が発表された彼を、あの人はどう思っているのだろう。葛西柊が表舞台から姿を消したときの自分が重なってしまった。



 スーパーに寄ってから帰宅すると、髙田雫毅は起きていた。何をするでもなく、ソファの上で足を抱えこんでいる。

「あ、お帰りなさい」
「ただいま……?」

 その返答でいいのかわからず、思わず疑問系になってしまった。

「買い出し行っててすみません。いくつか買ってきたので、好きなの選んでください」
「何から何まですみません……」

 髙田雫毅はメロンパンを選んだ。

「本屋で、髙田さんが表紙にいる雑誌があったんですけど、高田さんのファンの子が買っていきましたよ」

 無音を誤魔化すための世間話程度のつもりだったが、反応は想像と違っていた。その答えは、すぐ後に判明した。

「……で、何で昨日、というか現在進行形で、こんな状況になるに至った訳について、聞いてもいいですか?」

 そう尋ねた俺に、彼は視線を落とす。長いまつ毛がゆっくりと上下した。

「僕、グループにいらないんじゃないかって思って」

 その内容と声の透明感のアンバランスさは、聞き違えたかと思うほどだった。だが、はっきり聞こえた。俺の言葉を待つことなく、彼は続けた。

「アイドルに憧れて田舎から出てきたんですけど、なかなか難しくて。オーディションには、これが最後だと思って挑みました。選ばれたのは本当にありがたいし嬉しかったです。でも、日に日に負い目を感じて。僕がいないほうが、グループとしてバランスがいいんじゃないかって。それを伝えたときに、メンバーといろいろありまして。みんな同じ寮なので気まずいのもあって、勢いで出てきてしまって」

 オーディション番組を見る限りだが、髙田雫毅は自己主張が強くはない、穏やかで協調性のあるタイプだろう。昨日からの感じも含めて、謙虚でおとなしい。自己肯定感がとても低いように感じた。周りのレベルが高いことも関係しているのだろうか。

 だが、アイドルへの思いや評価は、技術や理屈だけではない。その人じゃないとどうしても駄目だ!というような、極めてぼんやりとして曖昧な、でも確信していること。

「誰かにとって、髙田さんが、アイドルという存在の入口になります。シーズン1のときには俺と同じように葛西柊を見ていた髙田さんが、これから先どうやってアイドルをしていくのかも、俺は気になります」

 時計の音がやけに響くように感じたそのとき、髙田雫毅のスマホが鳴った。

「出なくていいんですか?」
「大丈夫です」

 即答して画面を伏せたが、一向に鳴り止む気配がない。ここを無視できるスルースキルは持ち合わせていない。

「……あの、さすがに」
「……出ますね」

 苦い顔をしながら恐る恐るスマホに触れる。

『雫毅!? お前今どこいんの!?』

 間髪入れず、電話越しにもはっきりと聞こえるほど大きな声。断定できないが、Merakiのメンバーだろう。

「大丈夫だよ。……うん。……うん、わかった。」

 電話を切った彼は、呼吸を整えてからこちらを見た。

「戻ります」
「わかりました、気をつけて。……あと、友達の家に泊まってたってことにしといてください。赤の他人の家はさすがに問題というか」
「はい、そうします」

 髙田雫毅はカラオケにいた時点で荷物という荷物を何も持っていなかったから、俺の家を出るのもとてもスムーズだった。玄関で靴紐を結び直し、すっと立ち上がる。ドアノブに手をかけたかと思えば、そのまま静止した。

「あの」

 ゆっくり振り返った彼は、ポケットからスマホを取り出す。

「連絡先、聞いてもいいですか」

 何というか、髙田雫毅には驚かされてばかりな気がする。どうやらこの出会いは、2日間の幻覚ではなくなるらしい。



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