星空と青

 その日、私は青色の血が自分の身体から溢れ出るのを目撃した。痛みよりもまず、驚きを感じた。人間の血って、赤色じゃないのか。私の血が青いのは、何故だろう。私は宇宙人なのだろうか。
 病院へは行かなかった。気味がられるのが怖かったし、何より手首を自分で切ったことを知られるのが怖かった。誰にも言いえないこと、秘密、リストカット。私は先週初めて自分の手首を自分で切った。心臓が忙しなく動き、過呼吸になりながらも、剃刀に力を入れた。ぷつぷつと浮き出る血液は、何故か赤色じゃなく青色だった。空のような青色というよりかは深海のような深い青色だった。ひとしきり驚いたあと、そのまま化粧品のラメを追加したら、星空のようだな、と呑気なことを考えていた。東京に住んでいるから、満点の星空など十七年間一度も見たことがない。東京から出たこともないから、本当に一度も見たことがなかった。
 そうだ、私の血を小瓶に集めて、それで絵を描こう。大きいキャンバスに私の血を塗りたくって、その上に星を描くんだ。私だけの、星空を作るんだ。そうすれば、もう大丈夫な気がする。その絵が完成したら、私はもう手首を切らなくても良い気がするし、夜に耐えられる気がする。超えられない夜はない。けれど、その夜に耐えられるか耐えられないかは、全くの別問題だ。だからこそ、青色の血で星空を描く必要性があった。孤独な夜を、超えられた証。私はいつも、夜に限って手首を切る。

 アンティークショップに行って、丁度いい小瓶を探す。百均でも良かったのだけれど、なんだか風情がない。あまりアンティークショップには入ったことがない。しかし、この緊張も、ほどよい感じがするので、大丈夫だろう。一階のフロアにはお茶やお菓子、本が並んでいて、入るお店を間違えたかな?と一瞬思う。しかし、フロアの奥には階段があり、二階が存在した。恐る恐る階段を上がっていく。暖色の照明が、私を照らし出す。そこはなんだか暖かくて、心地よかった。自分の部屋の白く無機質な照明とは違い、ここには暖かさがある。人が存在し、そしてうごめいているという感じがする。
 二階に足を踏み入れた瞬間、きらめきで心が浮遊した。そこにはキリスト教関連のアンティークが並んでおり、独特の艶を放っていた。特に綺麗だったのは、オメダイだった。青や赤、色とりどりのオメダイがある。元々ミッションスクールに通っている私にとってオメダイは、行事で配られるただのストラップのようなものだった。しかし、このお店にあるオメダイは、なんだか放つ雰囲気が違う。
 自分の血と同じ色のオメダイひとつと、角っこにあった薬瓶くらいの小瓶を買って外に出る。なんだか、綺麗なものに触れたな、と思う。美しいものに触れると、自分もそれと同じように、美しくならなくては、と思う。それが良い方向にも、悪い方向にも進むから、人生は難しい。
 
 血を集める作業は少々難儀した。自分の手首を切るのは、私にとってハードルが高いことだった。手首に剃刀を当てる度に過呼吸を起こす。そして涙で顔がぐちゃぐちゃになる。そこまでしてやる意味はあるのだろうか?いいや、ある。私が生きた証、夜を超えられた証だから。諦めるわけには行かなかった。これは、私と私との闘いだった。
 血を集めてから一週間、ようやく小瓶満タンに血が集まった。ドロドロとしている血は、青色だからか、不思議と汚いとも気持ち悪いとも感じなかった。

 夜中、母親のアトリエに侵入し、一番大きなキャンバスとスタンドを盗む。一番大きいものを持ち出すのには、少々骨が折れた。それに、すぐ盗んだことが分かって怒られるだろう。けれど、そんなことはどうでも良かった。私だけの星空。それを思い浮かべるとどんなことでもできるような気がした。
 自室にスタンドを立てて、大きなキャンバスを乗せる。筆やパレットなんかは、小学生の時に揃えたもので十分だろう。もう使っていないそれらがどこにしまわれているのかを思い出し、引っ張り出す。
 小さなバケツに水を張る。パレットに黒や白、そして私の血をのせる。筆を軽く水で馴染ませてから、キャンバスの下の方に水を塗りたくる。父や母は立派な画家だが、私にその才能は受け継がれなかった。だから、自己流で私の星空を作る。
 キャンバス全体に、まずは私の血を塗る。水のおかげで、下の方はグラデーションができている。上の方には黒を追加して、少し夜の空だと分かるようにした。何度も何度も塗っていくうちに、少し汚くなってしまった。しかし、これで良いのかもしれない。自由に描くということ。それが今はただ心地いい。父と母は、こういうのが楽しかったのかな。
 数十分ドライヤーをかけて、絵の具と血を乾かす。本来の血は乾かすと茶色っぽくなるが、私の血は色が変わることはなかった。深い青が、そこに存在していた。
 完全に乾いたキャンバスに、白い絵の具で星を描いてゆく。小さいものから大きいもの、流れ星まで、沢山の星を描いた。そこに星座などは関係なく、ただ好きなように描いた。

 完成したキャンバスを写真に収めた。不格好で、お世辞にも綺麗とは言えない星空が、そこにはあった。しかし、これで良かったのだ。これで、正解なのだ。私が私に打ち勝ったという証明。これだけで、私はこの先何十年と生き延ばせる気がした。

 私はそれから、手首を切ることをやめた。
 血が青色でなくなったのを知ったのは、冬、プリントで指先を切った時だった。痛みと共に、みんなと同じ赤色の血が姿を現した。

 私は安心し、そして涙を流した。

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