日記 情報的な価値を持たないことの価値
福尾匠さんという、私の中で日記といえば、という印象を持っている人がいる。彼は昨年、1年分の自分の日記を365部限定で自費出版し、1ヶ月で完売させた。日記をまとめた本が珍しいわけではなく、私も横尾忠則の『千夜一夜日記』などをすぐに思い浮かべることができる。しかし彼の場合は特段著名人というわけでもない、言ってしまえば「なんでもない人」であるにもかかわらず、その人の日記を読ませたいと多くの人に思わせた一連の流れがとても印象的だった。昨日、ツイッターで彼の文章が流れてきた。
私がこのsubstackを始めて9ヶ月が経過しようとしている。特段何か目的があるわけでもなく、ただ「ニュースレターをやりたいから」という浅い動機で始めたが、やはり何かを言わなければならない(もしくは、そこから逃げるために何も言わない)と、少し身構えてしまう部分があった。
彼の言葉にあるように、何かを言わなければならないと悩める余地をなくし、恒常的なネタ切れ状態で私の文章はどうなっていくのか?そんなことが知りたくて、5月いっぱいは毎日更新することにしてみた。少し福尾さんの意図とは違うところにいるかもしれないけれど、ひとまず実践ということで、よろしくお願いします。
今日は続けて日記の話をしたい。
近年では日記の社会的な地位がおそらくものすごく下がっている。ブログやnoteを使って誰もが自分の考えを発信できるようになった現代において、日記は誰にでも取り上げることのできる身近なテーマだからこそ、すでに世の中に溢れすぎている。書きたい欲求で発された日記の数々が、誰にも読まれずにインターネット上にごろごろと転がっている。
他人の生活を覗く感覚、知らない日常を共有する感覚が新鮮だった当初は、日記が尊ばれた時代があったのだろう。あまりにも当たり前になった中で、もはや知らない誰かの日記を能動的に読むことはほぼない(よっぽど暇な時くらい)。さらにnoteの購読機能やフォロワー至上主義が加速する中で、情報的な価値を持つコンテンツがスタンダードとなり、何もタメになる知識を得られない日記は、さらにその地位は下げている。これだけ量が増えると史料的な価値ももはや薄れるだろうし、そもそもハードかソフトかで言えば ソフトなコンテンツであるため、形として捉えづらい。
そんな日記だが、情報が氾濫した状態がデフォルトになり、その状態に麻痺しつつどこかで窮屈さを覚える今、「情報的な価値を持たない」という点で改めて求められるものとなっているのかもしれない。とはいえ、一口に日記が良いと言っても「いや、本当にあんたのその日常は知らんがな」と思うものと、福尾さんの日記のように進んで読まれるものがある。
日記を大きく2種類に分類するとしたら、1つ目は起きた出来事の表層や結果をさらっていくもの 。
「アフタヌーンティーに行きました メニューはこれとこれがあって イチゴが美味しかった また行きたい」
これはその人の日記ではあるが、 誰がそれを経験したとしても同じ文章になるものであり、眼で情報を掴みさらっとスクロールされるInstagram的な書き方。
もう1つは、もっと個人的なもの、その人にしか経験し得ない日常を表したもの。真摯に真正面から自分の生活を捉えていくこと。福尾さんも日記の中で書いてる通り、YouTuberの日常vlogの人気に通ずるところがあるだろう。情報、情報、情報という世の中で、なぜあんなに「何でもないもの」が受け入れられるのか。むしろそれを私たちが求めているのはなぜか、ということは少し考えてみたい。
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