見出し画像

柔らかく生きる

私は幼少期にテレビで何度も目にしていたニュースの事件、紛争等を、なぜ人は皆幸せになりたいはずなのにこのような悲しい出来事が無くならないのだろうかと思っていました。

誰もが老いや死を迎える、障がい者になる可能性もあるなか、なぜその状態の人々を弱者として標的にするのか、「自分がされて嫌なことは人にしない」小学校で習うような道徳がなぜ通用しなくなるのか。相手の痛みをもし自分が受けたらどう思うかという想像力に欠ける人間に育ってしまったのは何が足りなかったのでしょう。

人間とは何か?生きる意味は何か?それ以前に更に俯瞰し人間の存在意義を考える時、この世界で起きている様々な現象は、本来、人類自然の共生、統合、平和を促すための出来事に過ぎないのではないかという感覚もありました。

宗教、哲学、生命倫理、死生学、幸福学、人間学、量子力学、高齢者介護の実体験…、広く学び融合していくと、私は独自の人間観、幸福論を持つようになりました。

そして到達した一つの答えは、「上善水の如し」と言われるように、"水のように柔らかい自在な心"が幸せに生きるために有用であるということです。私たち人間は肉体という形ある状態に見えますが、「人間の身体は60〜70%水で出来ている」というのは皆さんも周知の事実でしょう。生まれたての赤ちゃんは柔らかいです。人は死後、身体が硬直します。身体の柔軟性が健康寿命に影響するとも言われ、心も身体も柔らかく生きることが「自然体」なのです。何かに考えが囚われていると、それ以外を受け付けなくなったり、思い込みによって可能性を狭めたりします。「Aが正しい、Bは間違っている、だからBは拒否」ではなく、「Aもあるね、Bもあるね、でも私はこういう理由でAがいい」という自他共に尊重出来るアサーティブな対話、柔らかい心で人と接したいものです。こうでなければならないという思い込みを解放し、一人一人の心が「楽」になっていくことが、世の中の「楽」を生み出すのではないでしょうか。

私は観点を移動させることの出来る自在な心が重要だと思っており特定の宗教や教えに傾倒することは好みません。よく、自己啓発系の書籍や仏教などでは、「今ここ幸せ」「過去も未来もない」など言われ、今ここは何も問題起きていませんよね、過去への罪悪感、未来への不安、手放してしまいましょう、と謳っていることがあります。それは一つ、真理でもありますが、私の考えは少し異なります。人間は長期記憶を保持出来る高次的な脳を有しています。そして、その記憶によって思い出が様々な感情を生んだり、未来に対する危険予測を行ったりすることが出来ます。「今」は、過去と未来を内包している。私たちが今生きているのは、様々な人、モノ、自然の恵みあってのことです。過去を含めた自分を構成している存在への感謝、自分の命に対する感謝で自分を認める時、今ここ苦難が起きてもその一時的な物事に揺らぐことは無くなるでしょう。自分の存在そのものが幸せなのです。

自分の存在、命が尊いものだと気づく時、相手の存在、命もまた尊いものとして関わることが出来るでしょう。

人と比べてしまう、自分を大切に出来ない、そういったお声をよく耳にします。人間学で言う「才」と「徳」。「才」スキル面で自分はあの人より劣っている、出来ないなど悲観してしまうケースも多いですが、何かが出来ないとその人の価値が減るわけではありません。そういった「才」の尺度で人を見る方も居るため、それを受けて自信をなくしてしまい悩む人もいらっしゃるのが実情です。「徳は才の主、才は徳の奴(ど)なり」と『菜根譚』にあるように、才能よりも人格を高めることの方が重要です。人徳のある方はどんな人へも等しく「人」として尊重する心を持っています。私心にとらわれず、実相を見ることが大切だと感じています。

自分の心を先ず整える、これがなかなか難しくもあるのですが、松下幸之助さんは、「素直な心を養うためには、まず心からそれを熱願することから始めなければならない」と仰っています。自分を敬い、相手を敬い、心を柔らかく融通無碍(ゆうずうむげ)で生きていきたいものです。

最後まで読んでいただきありがとうございます。 何か気づきがありまた読んでみたいと思っていただけたら嬉しいです スキやフォローも励みになります♡ いただいたサポートは、学校の道徳副読本を目指した 人間観、自分の命を大切にするための絵本、冊子等 作成する資金にさせていただきます!