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辛いときに真価が試される

「辛いときに側にいるのが友達だ」とか「苦楽をともにした仲間の絆は強い」なんてのはよく聞く言葉だと思う。
私のこれまでの経験則から、それらはある程度正しいだろうと認識している。

私は小中高、大学、社会人と付き合う友だちが変化していった。
きっかけは様々だ。進学して連絡を取らなくなった。しばらく会わない間に価値観が合わなくなっていき、話していても楽しいと思えなくなった。例えを挙げると枚挙にいとまがない。

そんな私でも長く連絡を取り続けている友人はいる。彼らに共通してるのは、「自分もしくは相手が辛い時に側にいたということ」、「母子家庭もしくは、俗に言う複雑な家庭で育ったこと」の2つだ。

特に重要なのは前者の「辛い時に側にいたこと」だと考えている。側にいるというのは物理的にだけでなく、精神的に寄り添うこともふくむ。

誰しもが体調を崩したり、困難に直面してしたりするが、その時に寄り添ってくれるというのは何ものにも変え難い。

例えば恋人や家族でも、普段は一緒に幸せだと思っていても、本当に辛い状況に直面したときに寄り添えないというのは長く付き合うのは難しいだろう。
勿論、寄り添うには寄り添う側にある程度の心や肉体的な余裕が必要にはなる。
しかし、それでも側にいてくれる人がらいるのは当事者にとって少なからず助けになる。

ここで強調したいのは、あくまで「助けること」は必須条件ではないということだ。
「助けること」は悪くないと思うが、過干渉になりすぎると、当人へのプレッシャーになったり、単なるお節介の押し付けになってらしまうことがある。
当人にとっては「ただ受け入れてほしい」、「話を聴いて欲しい」、「共感して欲しい」というのが大半だ。
稀に具体的な支援を求めている場合もあるが、それは話を聴いた上で考えることはできる。

こんな話をしたのは、とある人に言われた言葉がキッカケだ。

近頃、季節の変わり目ということもあってか、私は体調を崩してしまった。
元々扁桃炎になりやすい体質なこともあり、高熱で体がしんどかった。
そんな時、私はその人に「なんでこんなタイミングで体調の崩すのか。遊び歩いているのが原因じゃないのか。自己管理ができていない。」と言われた。

正直私が欲しかった言葉は「大丈夫?」や「休んだらどう?」のようなものだった。
構ってちゃんと言われればそれまでなのだが、しんどい時こそ「正論めいたもの」は当事者は欲していない。
言われたようなことは大抵の人が理解していて、それでもできないから苦しんでいることが多い。

辛い時こそ、しんどい時こそ、「2人の関係性の真価」が問われる。
あまり真の友情なんてものは信じない主義だが、そういった経験を共有した人は大事にしていきたいし、返していきたいと考えている今日この頃だ。

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