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【雑記】自己と他者

「私」という人間はどういう人物であろうか。

それを知るためには、他者と比較することによってのみ「私」という人間の輪郭が明確となってくる。

逆説的にいえば、他者が存在しなければ「私」がどういう人間であるのか、知る術はないのである。

つまり「他者と比較して」というのが隠された接頭語として存在しているにも関わらず、私たちはそのことに対してあえて意識はしない。

性格、見た目、長所や短所などなど。他者はステレオタイプな人物像であったり、特定の人物であるかもしれない。(その人と比較して、)私は○○な人間である、といえるのである。


また、「自分はこういう人間である」といえないのは、比較対象となる人物が定まっていないことを意味する。自身を客観視することとは、他者を理解しようとすることにほかならない。

たとえばエントリーシートで記入する長所や短所。「他者と比べて」自身の秀でているところ、劣っているところ。その他者とは他ならない、同じ企業の内定を勝ち取ろうとするライバル達である。さらには、その企業が求めている「人物像」である。


現代アートにおいて、もはやオリジナル(唯一無二)な作品は存在しないということが前提としてある。すでに誰かによってやりつくされてしまっているのである。

では、現代のアーティストたちは何を作品化しているのかというと、解釈の独創性である。視点や発想がこれまでの作品の傾向などと比較して目新しかったとき、それが「オリジナリティ」となる。


疑問に思うことは検索することですぐに解決するようになった現代。しかし、そうして得られた解は自らが欲するもの、つなわち求めている答えの裏どり(ソース)を探し求めているのである。

しかし現実では、A or Bといった二項対立的な回答だけではなく、AとBとの中間、いわゆるグレーゾーンな部分にも解は存在している。正解はAやBだけとは限らない。CやDも実は正解であったりもする。

にもかかわらず、一般的にはA or Bの回答を求められているのである。CやDは対象外なのだ。求められているであろう「正解」を答えられるかどうかが、一般社会では問われている。


多様性(Diversity)、平等と公平、などなど。解が多様化すればするほど、最適解(一般解)が求められているような気がしてならない。




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