見出し画像

言語を持たぬ者と 言葉から開かれるもの

2月から新しい環境に身を置いているのですが、

分野が変われば、使われる言葉も変わるし 文化も変わるし
考え方も変わるしで、


その世界で流ちょうに言葉を話し 交わすには時間がかかるよな
というのを改めて感じました。



エチオピアにいたときも当初はそんな感じだったのを思い出します。


自分が持ってる語彙はほんのわずかだったので、ひたすらにそれを繰り返す。

聞き取れることができる言葉も数少なかったので、
自分のうっすい語彙辞典を総動員して、知ってる単語(っぽいもの)をキャッチして、理解というゾーンになんとか持ち込む(分からないばかりだと溺れてしまうので)。
もしくは、自分の知ってる範囲になんとか話を持ち込もうとする。


とにかく最初はそんな感じ。
だだっぴろい大海原で、ひたすら木片を探してた(もしくは作り出してた)。


しかもしかも。
言語の裏には文化があって、それ独特の呼吸とか間みたいなものがある。

ある意味言語は一番とっつきやすくて、
実際に体感していなくても、裏で覚えて話せば そこそこなんとか
という面もある気がします。


その言語すら、拙さゆえにとっつけなかったら、、、、、

もう取り付く島もないないですよね。漂流です。



新しい環境になった時、そうでした。


何を話してるか分からん。
何をどういうニュアンスで ワードで話せばいいか分からん。

黙ってるのはあれだけども、どう相槌を打っていいのかもわからん。
どういう間合いなのか どういう空気感なのか分からん。


後者は前者の延長線上にあるものだけれども、
前者が地味に辛かった。



言いたいことはあれど、言葉を持たない辛さよ。

またその言いたいことすら、過去の文脈を知らないがために、
とんちんかんな 一昨日を向いているようなことになってしまいかねない
恐ろしさよ。


そんなことに苦しめられていた数週間でした。
同じ国の中 という意味で言えば、エチオピアの時よりは短かったのかもしれませんが、同じ言葉を話しているからこその歯がゆさみたいなものもありました。



そして、少しして その分野の言語なるものを
まだ若干の握りの浅さはあるものの、獲得したとき。


言葉を獲得したときの効能は2つあると思っていて、


まず、単純に自分がその言葉・概念を使いこなせるようになること。

そして、相手がその言葉を使ったとき その意図や機微が分かること。


実は意義が大きくて 奥深いのは二番目のような気がしています。


というのも、


自分がその「言葉」を使うことで
自分の表現の幅が広がる・自分がその概念を自分の物にできる
という効果は確かに大きいかもしれない。


けれども、そもそも自分外の言語の中にいるときって、
話せないのもつらいけど 相手が何を言ってるか分からないのも辛いと思う。
分からないの中に身を置きすぎると、自分がすーっと消えてくような気持ちになる気がする。

そういう意味では、他の人が使う言葉の意味が分かり、
その言葉が言わんとすることが分かり、さらにはその言葉の背後に見え隠れするものが見えるようになると、

ある意味、世界が開かれたような気になる。



その辺りは全然深掘っていませんが、とりあえず。

言葉を知って 微弱ながら使えるように放ったものの、


~語うまいね!とか ~知ってるなんてすごいね!
と言われているのでは、まだネイティブになれていないということなので、


なんとか少しでもネイティブに近づけるように、
言葉も感覚も背景も 掴めるようになっていきたいな
と思っている春です。



画像1

冬の大雪が凄すぎて 未だに少し語り草になっていて、
この開花・満開の速さに全く追い付けていないのですが、

置いていかれないように でも自分のペースで
季節についていけたらと思っています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?