〈セックスに似ているけれどセックスぢゃないさ僕らのこんな行為は〉歌集『メタリック』のこと

わたしは短歌がすき、だけど短歌のことはほとんど何も知識がない。大学時代の論文テーマは寺山修司の歌集と映画の比較研究だったけど、ほぼ寺山の短歌しか追いかけてなかったし、同じゼミのかわいいおんなのこと、不倫するおんなはありえないけど俵万智のよむ歌はたまんないのが不思議だよね〜って言いながら『チョコレート革命』や『風のてのひら』を読んで語らっていたぐらいしか思い出がない。

大学の授業のなかであった、短歌を作ってきてくださいっていう課題にはかなり困った。わたしは感覚に頼りすぎて三十一文字の文学の作法をまるで理解してなかったなと今になっておもうので、やっぱりそのときの講評もかんばしくなかった…とおぼろげに記憶している。カシオペヤ座についての歌だったのは覚えているが恥ずかしかったので上の句も下の句も記憶から抹消してしまった。

わたしは短歌のことをたぶんほとんどわかっていなくて、わからないからこそつよく惹かれてそのままずっとすきでいる、そういう感じでいまも歌集をたのしく読んでいる。穂村弘の『ぼくの短歌ノート』や『短歌ください』なんかも読んだけどやっぱりわたしにはあれに載ってるような歌はかけない。ああいうのって学んでいるんだろうか、訓練しているんだろうか、それとも感覚に委ねているんだろうか。わからないけど、うまい人はきっとどちらもだとおもう。

小佐野彈著『メタリック』との出会いも大学時代だった。定かでは無いが就活中だったかもしれない。何をきっかけにかは忘れたけれど、ある一首を目にして、わたしは愕然とした。

「 セックスに似ているけれどセックスぢゃないさ僕らのこんな行為は 」

まず率直に、すごい、とおもった。こんな歌をわたしはよんだことがなかった。そして言葉にならない切なさを感じて、その切なさの主体がまったく自分ではないことにも気づいた。

わたしは性的マイノリティではないし、なんだろう、そもそも名のつくなにかに属しているという意識もあまりないように感じる。もちろん人間で、社会人で、性別は女性、ゆとり世代、OL、文学部卒…とか挙げようと思えばいくらでも出るけど、それって意識の外というか、わたしをわたしたらしめる要素であるとは断言できない感じがする。そうでないところでいえば、比較的"若い"おんなで、二次元アイドルのおたくで、BLを愛好しているいわゆる腐女子であるというところ…現状はそれがわたしをわたしたらしめているのかもしれない。それでもやっぱりマイノリティという属性からは遠くかけ離れたところにわたしは立っているような気がして、だからといって完璧に境界線を引いて自分自身とここによまれているひとの存在を区別できるものでもない、漠然とそんな風に感じた。

そんな中途半端なわたしがこの歌を切ないとおもうのって、それだけでかなり暴力的なことなのでは?いや、短歌だって文学でそれは世に放たれた時点で読み手に消費されるためのものになる、だからわたしがどういう感慨を抱いても自由だ。でも、わたしは「セックスぢゃないセックス」なんてものをしたことはなくて、そう感じるまでの経過も心の動きも何一つ知らない、そもそも著者がこの歌を切ない気持ちで詠んだのか、諦めなのか怒りなのかそれすら乗り越えた全能感みたいなのによるものなのか、考えれば考えるほどわからない。そんな思いがぐるぐる駆け巡り、いまも結局よくわからないまま。

わからないなりにいろいろ考えても、いつも辿り着くところは同じで、つまりは生殖を伴わない性行為、身を結ばない行為、だからこんなのはセックスじゃないね、単純にそういう歌なんだろうとおもうけれど。だからヘテロラブに劣る、というような読み方は絶対にしたくはない。結果として何か生むわけでもない行為に意味はない、だからだめ、だから劣るなんて、おもいたくない。だってわたしが趣味でやってることだってぜんぶ意味がないから。意味はないけどたのしくてしあわせで、それをしていると毎日満たされた気持ちになる、だから結果何も生まなくてもずっと続ける。わたしのそれは二次創作のことだけど、比較対象にもならないけど。人生の大半はそうで、人間の営みもほとんどが無意味なことでいっぱいだとおもう、でもそんな無意味で非生産的なことにこそ意義を見出して愛してしまえるのが人間の心なんだよな、ともおもう。この記事だって本当にまるで意味がない、でもわたしは書いていてたのしいなとおもうし、気が向いたらまたこういうのを書きたいなとおもうので、それってそれだけで充分じゃないか。


記事を終えるまえに、『メタリック』収録のすきな歌をいくつか載せよう。


「 いつまでも辿り着けないわけぢゃないそれでも遠い岸だあなたは 」

これが一番すき。穏やかで熱のこもった燃えるような憧憬が全身に伝わるよう。どれほどかかってもいつか辿り着きたい、辿り着いてみせる、けれど遠い。近くて遠い遥かなひとをうたうのに、向こう岸というのはこの上ないたとえだなとおもう。

「 この熱を全部受けたらわたくしも青い光になれるだらうか 」

人は死ぬとき青い光を放つというけれど、ここには死の影は失せているように見える。生きていて愛し合って他者から与えられた熱をすべて受けとめてあなたと同じ光になりたい。やっぱりなんでもBL的文脈というか…そういう読み方をしてしまうし、そうであってほしいと思ってしまう。

「 その昔にんげんだつたころの熱懐かしみつつ背すぢをなぞる 」

すてきだ。「にんげんだつたころの熱」に物語がひめられていてどきどきする。自カプがちょうどそういう感じの…今はにんげんだけれどにんげんじゃないころもあったと思えるようなふたりであるので、この歌は何度読んでもかなりときめく。ああ、ひよなぎ…。「背すぢをなぞる」という行為の官能性ってなんなんだろう。説明のつかないあまりのえろさ。

「 乞ふべきか乞はざるべきか いや、やはり乞はざるべきだ 」

葛藤を描写するのうますぎる。そこからの自己完結のはやさも三十一文字ゆえという感じで、そしてひとの自問自答の現実的な速度を感じる。乞ふべきか乞はざるべきかを考えるとき、大抵の場合は乞はざるべきだと初めから決まっているのにそれでも考えてしまうように思うし、乞はなかった先にあるドラマにこそ体温を感じてしまう。


ほかにもすばらしく心が揺り動かされる短歌の数々が収録されている『メタリック』はAmazonで買えます。ハードカバーの歌集にしては比較的安いほう。ぜひ。

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