当事者映画としての『シン・ゴジラ』

近年では自分でも久々にハマった( 4 回鑑賞)の映画の感想です。期を逸しすぎた感ありありですが、 DVD ・ Blu-ray 化記念としてしょぼいレビューです。観てない人はぜひレンタルからでも観て欲しい作品です。

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ある日、東京湾にて原因不明の爆発があり、東京湾アクアトンネルが崩落するという事故が発生する。
緊急招集される内閣。多くの閣僚がその原因を「海底火山の噴火」と決めつける中、ただ一人だけがそこに脅威の産声を感じ取る。
彼以外の全員が彼を嘲笑するなか、海底では確実に脅威は成長し首都へ歩を進めていた。
やがて脅威は街を横断し、ビルを破壊し、人々を殺め、その巨体を以て首都を蹂躙し続ける。
やがて脅威は「ゴジラ」と命名される。

人智を越えた存在を前に、日本と日本人を守るべき政治家達はなすすべなく圧倒され、狼狽することしか出来ない。
ある者は問題から目を逸らし、ある者は責任を逃れようとし、そして最も責任ある者は思考を半ば放棄し、およそ見当違いな見解によってかえって自国を混乱の渦へと陥れてしまう。
そこに「当事者」の姿はどこにもなく、それは我々が6年前に目の当たりにした「あの災厄」の光景を彷彿とさせるものであった。

一方で、限られた者たちだけが脅威に立ち向かい、策を講じ、あるいは生命を賭して立ち向かっていく。
権威から遠く離れ、出世の道からも外れた「はぐれもの」である彼らこそ、日本人としての「当事者」意識を共有する者たちであった。

ゴジラはやがて日本のみならず全世界が敵視する対象へと成長していく。
全火力を投入した攻撃さえ退けられ、意図せぬ大国の援護を得た結果、さらに悪化していく状況の果てに日本人に突きつけられたのは「己が問題を己だけで解決できない」ことによる、ゴジラをも越えた世界からの脅迫であった。

既に焼け野原となった首都をめぐる、「日本人 vs ゴジラ」という最後の攻防が始まる。

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本作、主人公が二世議員であり、全登場人物が公務員という異色の設定が物語るとおり、「戦闘シーン」はそう多くない。
かわりに「会議シーン」こそアクロバティックかつスピーディーに描写され、全編通じて息もつかせぬ高密度で進行していく。

馴染みある姿とあまりに違いすぎる本作のゴジラに、我々は何を見出すべきか。
それは「震災」であり「原発」であり「戦争」であり、問答無用で日本に迫りくるあらゆる社会問題の象徴である。
それは日本が向かう未来が、予測不能かつ一方的かつ、感情移入を完全に拒絶した世界であることを同時に示している。

本作をどれほど面白く感じられるかは、観る人の日本人としての「当事者」性に依ると思う。
あなたが日本人としての「当事者」意識を強く持つ場合、ゴジラの脅威はより脅威として迫り、焦土と化す首都を己が問題として同一視できるだろう。
しかしそうでない人には単純なモンスタームービーとしか映らないかもしれない。
本作は庵野監督から全日本人への問題提起であり、警告であり、あるいはひとつの啓蒙として捉えることもできる。

異形の「ゴジラ」はまさに、日本人による日本人のための日本の象徴的映画だ。
それは「活動停止」にまで追い込めても「殺す」ことができない脅威、安堵は合っても歓喜はない結末、そして不気味な余韻である。
その巨大さ、その不死性、あの光線はあくまでもフィクションだとしても、「ゴジラのような存在」に我々は既に相対している。

ゴジラの焦点の合わない瞳は、スクリーン越しにフィクションでは済まない脅威の足音をまざまざと観衆に突きつけていた。

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