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カウンセリングの記録


イメージも使いながらグラウンディングする。地球のエネルギーを足裏から吸い上げて、丹田まで上げてきたときに、さらに上半身の身体の表面までそのエナジーがふわっと広がっていき、視野が広く明るくなった。意識が広く大きくなった。(面白かった…!)

頭頂やや左寄りの場所に、エネルギーの詰まりというかスースーしたビリビリがあって、それは面白いことに、凄くグラウンディングしていたのに、最後まで取れなかった。(頭頂だけどうしてか分離している。。)

今回は何を聴こうか、とおもい、体に意識を向けてみる。手の存在感が強かったので、手に意識を向けてみると、手がすごく元気で、何かしたい、施したいと願っているのを感じた。

それは活きたい、生きたい、施したい、与えたい、という純粋でパワフルな意志だった。もっと何かできるよ、既にそれはあなたにあるんだよ、いつかは(子どもの頃は?)リミットを付けずに自然としていたことなんだよ!と言いたげだった。

コラージュのように、ひとつの断片から無限に広がっていく世界に、手はそのままに動いていた、スキップするような軽いエネルギーで。

子どもの頃はそんな感じだったのかもしれない(覚えていない…)それに夢中になっている時間、私はなにかに守られていて、木で出来た涼しい建物のなかで、静かに健やかに安心していたようだ。

杉のような針葉樹の、いい香りがする。カラスの鳴き声がよく聞こえる。嗅覚も聴覚もクリアでよく感じる。

木のいい香りは、3次元のものなのか、私の感じ方から来ているものなのか区別がつかない。私の心の聖地が杉林なので、そこの木々の匂いかもしれない。

次に感じたのは、いつかの体験、その場の空気。陽が沈んだ後の物哀しい時間だった。3才の頃の記憶らしい。

孤独という言葉が浮かぶ。大人の私はその夜の静けさ、哀しさを好み、黄昏て楽しんでいた。最近の私が感じたどの感情よりも、それは澄んでいて、味わい深かった。

だけれども、それは感情というよりも、空気だった。感情も空気も、そこでは一体だった。空気が感情だった。味のする空気といえばいいのか。

3才の私には陽の傾きが、その静寂が、恐ろしかったのかもしれない。3才の私にサポート役を付けたら、それは絵本から飛び出してきたような小鳥と兎だった。彼らは幼子の慰めだったのだろうか。

この体験のイメージとして、飴玉と鍵が出てきた。鍵は本のロックを解く鍵だ。「え、飴玉?」と思って、そのイメージをそのとき拒否してしまったけど「味わう」体験だから、飴玉だったのかも、と後から気が付いた。

この時、私のグラウンディングが過去最高記録を叩き出しており? 椅子に座っている臀部の感覚がすごくクリアだった。

このときの体験はとても空気的だった。今までは身体の感覚を掘り起こして腑に落としていくプロセスだったけれど、心の片隅、奥底にあるもうひとつの空間を感じてみるのも面白い体験だ。

身体と意識のなかには、たくさんの私がいる。それは気づいていないだけで、既に存在している。それは心の片隅にあるとても微かなものだが、何よりも味わい深かった。

この時の静けさ、哀しさのような空気の感度で、あらゆることをいつも味わって生きていたいと思う。

これからも全体性を取り戻していくことが、ひとつの課題だな。そして私はこの手でなにができるのかな。

帰りに今回気づいたものでカードを引いてみると、白紙のカード。欲張って、気になったものをもう一枚引いても、見事に白紙だった。

自分の言葉で表せということか。カードのなかにはないものだったのか。そのまま余白、空気ということか。

まだはっきりとはしないけど、片鱗は見えてきたのではないかと思う。自分の内に既に在るものを信頼していこう。

↓空白のカード2枚(かわいい)

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