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You just don't know,

 退屈なときに、何をするでもなくTikTokをぼーっと見ていると、ボーカルグループ・Pentatonixの歌う、Favorite Thingsの動画が流れてきた。


@pentatonix

#Duet with us! It's Week 2 of our PTX #AcapellaAdvent singing My Favorite Things and we want to hear YOU sing @kirstin.tm’s part! #ptxevergreen

♬ original sound - Pentatonix


 メインになるパートが聞こえない。歌詞が字幕に出てくる。どうやら、視聴者が画面を見ながら歌うよう誘導する動画であるらしい。
 すごく好きな歌だ。この歌が使われている映画、サウンド・オブ・ミュージックでのワンシーンが思い出される。小さく口ずさみながら、この歌、めちゃくちゃ難しいな、と思う。


 TikTokでは、動画という一方的なコンテンツを通して、どうすればインタラクティブなコミュニケーションが成立するのか、という試みが日夜なされている。難しい言い回しを使ってしまっているが、要は、表現者もファンもいっしょくたに、みんなできゃいきゃい楽しんでいる、ということ。こうして、いち視聴者として動画を見ながら歌ってみるなど、実際に何かをしてみて、初めて気づくことは多い。双方向コミュニケーションの楽しみの核心の部分だ。この歌は、Favorite Things、つまり自分のお気に入りのものについて次々と並べ立てていく歌だけど、もし自分がお気に入りのものは何かと尋ねられたとしても、こんなにたくさんのものを急に列挙するなんて、普通、無理だよな。こんなにたくさん、お気に入りのものがあるわけでもない。


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 Netflixで配信されている新作映画、「Don't look up」を見た。
 間違いなく地球に衝突する巨大な彗星を観測した天文学者を主人公とするパニック映画であるが、同時にブラック・コメディもの、としても紹介されている。
 パニック映画であれば、未曾有の危機に対する全人類の結束の上、たくさんの問題に立ち向かうという流れが定石だろうが、この「Don't look up」では、どの登場人物の思惑に傾くこともなく、全くちぐはぐかつ無秩序にストーリーは展開していく。




 わたしは日本の映画・ドラマをほとんど見ない。脚本と、演技の不自然さに耐えられないから。
 不遜を気取って、高飛車な意見を振りまいているわけではない。むしろ逆の、卑屈さからだ。

 日本の作品で見られるような、登場人物の発言や行動にためらいがなく、また、説明のつかない矛盾や間違いが極力排除された表現を、「それこそが正しいもの」として、イデオロギーを金棒のように振り回されているように見てしまう。そういう作品ばかりではないことも、そもそもそんな表現ばかりでないことも、当然知っている。でも、わたしはひねくれている。「チェーホフの銃」は、だからこそ撃たれずにただ横たわっているべきなのではないか、と考えてしまう。

 「そもそも、ドラマじゃなくてミュージカルだと思い込んでいれば楽しめるよ」
というアドバイスをくれたのは、誰だっけ。


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 そもそも、だ。
 そもそも、人間の論理性というものなんて、あまり信用してはいけない。

 今日はクリスマスだ。クリスマスにまつわる逸話・寓話は、世界中に様々なものがあるが、こういったものは、あるちょっとした出来事が、竜頭蛇尾に、あるいは会話という情報伝達手段の抱える、大いなる複製エラーを経て形を変え、なんとか残ったパーツを元に、ある程度一貫性を持つよう、暫定的に再構成されただけのものにすぎない。さも、重要な教訓をたたえたものとして伝えられる世界の「むかしばなし」は、たとえば、わたしがTikTokの画面を延々とスクロールしながら無為に過ごした1日を、わたしの妹が半笑いで揶揄したような、なんでもない出来事から生まれたものなのかもしれないのだ。


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 こないだ、暇つぶしにこなしていた性格診断テストの中に、

「人生で最初の記憶は?」

という質問の項目があった。

 よくある質問である。自分の「最初の記憶」については、これまで生きてきた中で何度も回顧している。なので、その対象についてはすっかり目星がついているが、こうした反芻の作業の中で、いつも疑問に思うことがある。

 「最初の記憶」の、それ以前の記憶は全く無いから、つまり、自分が何を考えどう生活していたのか、その「最初の記憶」以前には、意識すらないプランクトン同然の生き物だったとしてもおかしくない。しかしながら、その「最初の記憶」の中での自分は、頭の中でものを考えたり、それに合わせた言葉を発している。突如、思考や意識といったものが、天から降りてくるように身につくとは考えがたい。母に聞けば、たとえば、わたしがはなしはじめたのは、その「最初の記憶」よりも2年以上も前のことだという。考えれば考えるほど、なんとも奇妙だ。

 そうして、考え事を繰り広げているうちに、自分の人生とは、自覚の上ではその「最初の記憶」から何の脈絡もなく唐突に始まっていたことに、ふと驚いたりする。

 あの、3歳のクリスマスの夜の、父との会話の記憶から始まるこの人生を、この生活を、どう意味付ければいいのか。

 わたしが意識を失うまで酒を飲んで、そうして全く前後不覚なまま暴れたりするのは、人間の人生を貫く "非論理性" への感謝を捧げる、礼拝に等しいものである。

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 人生には脈絡がない。だからこそ人は自分の出自に思いを馳せる。自分はどういう血筋のもとでどう生まれ、同育ち、そしてどう進むべきなのか。そこに大義にひとしき一貫性がありはしないかと。

 人生には脈絡がない。魂の震えるようなサクセスストーリーも、悲劇のラブ・ロマンスも、本当は存在しない。ただ都合よく、ある出来事と出来事が連なるよう見せかけた上で、並べ替えたコラージュに過ぎない。


 しかし、これは尊い試みでもある。自分の記憶の底を見つめれば見つめるほど透き通る、その硬質なランダムさをなんとか溶かし、流動性を与え、ある秩序にそった成形ができはしないかと手をのばす、その試みだ。

アリアナ・グランデと、マック・ミラーの合作曲をふと、再生する。


 素敵な曲だ。

 この二人の間には、本当はどんなことがあったんだろう。わたしもそんな恋愛をしたいな。来年は。イヒヒヒ。

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