交わらないことが正しいこともあるすべての色をまぜたなら黒

分かり合えない人間というのは一定数存在する。
わたしは生家でそれを知ってしまったので、関わりたくない人間へ塩対応するときの塩分が濃い。
Twitter(X)のブロック数も4桁である(ほぼスパムではあるけれど)。

関わらないことが正解である場合も多々あると思うのだが、世間では「みんななかよく」がお題目として掲げられていて、「それは逆に優しくないのでは?」と思ったりもする。

義務教育時代、道徳で
「クラスに障害のある子が転入してきました。あなたはどうしますか?」
という質問があった。
「友達になってあげます、という答えを書いた人がいますね〜」
教師の声にクラスメートがわたしを振り返って言う。
「いまのこいしちゃんでしょ?」
わたしはそれを無視し、教師は続けて言う。
「友達になってあげる、というのはちょっと上から目線じゃないかな?」
クラスメートはにやにや笑っていた。
わたしは
「わたしじゃないから」
とだけ言って、教科書に目線を戻した。
視界のすみでクラスメートが驚いたような顔をしていた気がする。

(友達になる人間を選ぶ権利くらい誰にでもある)

たとえば、わたしは教師にやり玉にあげられた相手をにやにや見るような子は友達だと思っていない。
「お、これはいいですね。『普通にしてる』」
わたしの回答を読み上げる教師にも特に面白みを感じない。
相手の属性が何であれ、気の合う合わないは別の話だとその頃から思っていた。

それが家族でも、クラスメートでも、合わない人間はいて、それがSNSのような広い世界であればなおさら。

Twitterでめんどくさい人に絡まれたことがある。

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