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猫じゃなくて人間かぶってんのよ


猫を被る(かぶる)

―本当の姿、本性を隠して、おとなしい人格として振舞う。特に女性が人前で清楚なふりをする。といった意味の表現。



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こんな表現に使われる猫がかわいそうだ。
と思っていたけれど、この猫はあの猫である説と、藁や縄で編んだ敷物を、かつては「ねこだ」と呼んでおり、「ねこだを被って隠れる」なんてところから転じて、猫を被るという表現が生まれたという説があるらしい。

もしこの猫があの猫だとしても、猫アレルギーのわたしは、猫を被った猫を目にしたことがない。

いずれにせよ、本来の姿のまま、生きているひとなんてこの世にいるのだろうか。



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ことなかれ‐しゅぎ【事×勿れ主義】

―いざこざがなく、平穏無事に済みさえすればよいとする消極的な態度や考え方。


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どちらかと言えば「人見知りしないね」「友だち多いね」「誰とでも上手に付き合うよね」なんて言われる人生を過ごしてきた。

新しいひとが多い場に行って、少し疲れて、終わってその空間を出たときにボソリと「今日はちょっと猫を被ってたな。人見知りもしたし疲れたなあ」と呟けば、横にいる友人が「は?あれで人見知り?どういうこと?」と言うくらいには、極めて自然に振る舞えているようである。

ああ、そうだ。
正直楽しさを感じることが難しいなあ、と思った初見の人との食事でも帰路の途中で「今日はすっごく楽しかったです。またお話したいです!」とメッセージがくることも稀ではない。ここには書かないビックリマークの量や、次の日程を決めようとしてくれるあたり、お世辞ではないのだろうと思う。そしてそういうときの食事は大抵、わたしはしゃべった記憶が無い。難しいなあと思いながら話を聞いていた記憶はある。話の聞き方が、接客態度のいいキャバ嬢と言われたことが何度かある。メッセージが来たときは、わたしをそこそこのクオリティでご提供できたようでよかった。と思うようにしている。

こんなことは誰にでもあることだろうと思っているが、どうなんだろうか。


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はっぽう‐びじん〔ハツパウ‐〕【八方美人】

―どこから見ても欠点のないすばらしい美人の意から、転じて、だれからもよく見られたいと愛想よくふるまうこと。また、そのようにふるまう人。



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こんな風に、しないで、生きていく方法が分からないのだ。

意識らしいものが芽生えたときからずっと、自分の意思はあるようでなかった。
感情や表情というのが自然と生まれる、感情が腹の底から湧いてくる、そんな感覚がおそらく、いまだにちゃんと分かっていない。目の前の出来事に対して、それらしい反応と表情を選んでみている、というのがわたしの感覚にかなり近しい。

野球で点数が入ったら喜ぶといいらしい、その表現方法は、ハイタッチ、肩を組むなどがあるらしい、ひとが大声を上げて笑っているときには、一緒に笑顔をつくるといいらしい、笑顔を作ったときの気持ちが嬉しいらしい、笑顔は口角を上げ、目尻を下げるといいらしい、ひとが死んだときには、悲しいという感情が当てはまるらしい、そういうときは、無表情でいるかうつむくといいらしい。
感情を覚えるより先に、そういった振る舞い方を覚えざるを得なかった環境で育ってきた。事勿れ主義といえばそうかもしれない。喧嘩はいつでも仲裁する側の人間である。

「死んだように生きている」という表現を聞いたことがあるが、自惚れていなければ、わたしのようなやつを指しているのではと思ったこともある。


本気でスイッチというやつを切ってしまうと、振る舞いというやつをしないでおくと、ひとの話を聞くことも、話をすることも、目を合わせることも、相手の喜びを受け取ることも、わたしには、なにもできない。無、なのである。べつにいい子でいたいなどという気持ちではない。他人からの評価などはどうでもいい。
本来のわたしのまま、であったならば、生活さえ送れないような人間なのである。

猫を被っているんじゃない。そんなにかわいいもんじゃない。
人間らしい振る舞いを被っていなければ、この社会の中で生活を送れない。ただそれだけのことである。


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かざみ‐どり【風見▽鶏】

―定見をもたず、周囲の状況を眺めて、都合のよい側にばかりつく人のこと



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成人をようやく迎えるという少し前くらいから、周りの人々が、殺風景だった心というものを耕してくれ、感情が沸き立つということが少しずつ分かるようになってきた。笑いが止まらない経験があり、今日という一日が幸せだったと眠りにつく日があり、悔しいと思う経験があり、腹立たしさによって戦うという覚悟を持ったりした。

少しずつではあるが、ひととしての機能を身に着けてきているような気がしている。

一方で、ひとによって振る舞いに差をつけることや、ひとを区別をすることはまだ分からない。八方美人、ええかっこしい、というやつに見えているひともいるのだろうと思う。けれど、区別をすること自体の面倒さと、区別をすることで生じる面倒さを思うと、この、よくいえば、風のような在り方が、最も生きる上ではエネルギーが少なくて済むように思う。

そう、人間らしく、振る舞うのである。なるべく少ないエネルギーで、人間らしく。人間であるために、人間らしく、振る舞うのである。


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猫を被る(かぶる)

―本当の姿、本性を隠して、おとなしい人格として振舞う。特に女性が人前で清楚なふりをする。といった意味の表現。



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「人間を被る」こんな表現に使われる人間がかわいそうだ。
それでも、隠して、それらしくしたほうが、生きられるのだ。そうしなければ、生きられないのだ。

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