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等しく尊重されて欲しいと云う気持ち

発達は人により異なるし多様である事はよく知られているはずだ。そうでなければ合理的配慮等は無意味であろう。
私がこの国に生まれ教育を受ける中で、1番苦しかった事は、できない人をできるようにする、という世界で成り立ち、できる人には苦痛を強いることをなんとも思わないことだ。

一定の到達点に達すれば良いのであれば、同じように同じことを同じ場所で受ける必要はないはずだし、できるはずなのにできないなんて!と言われる悲しみを理解されるべきだと思う。

初めて勉強で躓いたのは体積についてであったように記憶している。立方体の体積を求めること、その利用についての疑問を先生に訊いた時、とてもショックだった。
ただ覚えさえすれば良い、意味や概念を問うな、と言うのだ。
理解し使いこなしたいと考えていた自分にはとても理解できなかった。


その後も沢山の理解不能な事に出会ってきた。
理解が高そうに見える点と、苦手な事ができない点の両方存在するのを理解してもらえない事にその都度落ち込んできた。
意見を言えば面倒がられ、できる事が悪いことと言われて泣いた。

ある時いじめられる事に抗議したら、先生に
できるから妬まれる、できなければ良い
学校を休めば良い
そう言われた事もあった。

学校を休めば評価に影響することを知って怒りと悲しみと悔しさを感じた。

何故こんな目にあわねばならないのか、全く理解ができず、この国と社会に絶望した。


その後、海外を目指そうと無理やり進学を親に認めさせてやっとのことで大学に入ったが
体調を崩して退学せざるを得なかった。

成仏できない社会不適合感を抱えながら非正規職を転々とし、やっと周囲と理解し合う事を諦める事ができた。
理解し合える人に出会えた時は本当に幸せだが、それは難しい事も知った。


私は所謂高知能と言われる人程のレベルではない。
そこには届かない程度だと認識している。
だとすれば、この不快な思いをした人の数は相当だと思う。


IQが正規分布するとの仮定に沿うなら、
IQ85以下(-1SD)がおよそ16%、IQ70以下(-2SD)がおよそ2%となる。


逆を考えてみて欲しい。+1SDの範囲は16%で全く少数ではないのだ。

この人たちを支える社会であれば、もっと課題解決は進むはずだ、と
大人になった今、学校ではない学びの場について真剣に考えていきたいと思っている。

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