届けたい言葉と届く言葉と
本当は別のことを書きかけているけど、忘れないうちに。
表現の話などを久しぶりにした。表現手法とか手段の話を。
誰かを傷つけることは悲しい。
だけれど誰かが踏みつけられるのも悲しいし、ただただ互いを尊重し合いたいだけなんだけれど。
なれない対話を楽しみながら意見交換をしていて、感覚的に近しいものの存在を見過ごすことができないのか、ハッキリと浮かび上がって見えた。
そして思い出した。
***
随分と前の話。
あの頃は、まだ自分の中にある恐怖や不安と破壊的な衝動がベッタリと張り付いていて、どうやっても剥がせなかった。酷いことも沢山したし、傷付けることも傷付けられることも厭わなかった。
そして言葉で遊び、言葉で傷付け合い、言葉で選別をしていた。
話の通じない世界に生きていることが苦しくて、通じない相手を厳しい態度で詰めたりなどもした。お互い得る物のない寂しい関わりだった。
そんな世界で、一筋の光を見た。
音楽と情景と、その匂いや温かさを伝えてくる文章だった。そしてユーモアのある。
当時の自分は、その人の文章に深く惹かれるとともに距離も感じていて、触れてはいけないもののように感じていたから積極的な交流は殆どなかった。
ただただ、その人の紡ぐ言葉の向こうにある音に想いを馳せていた。
その人がそこから消えると決めた時、積極的に声をかけなかったことを後悔していた。そして沢山の人から愛される姿が眩しくて、ダメ元で見てくれたらいいな、と文章を書いた。言葉が届かない苦しさを込めて。
私は誰かと想いを共有したかった。掴みきれないものを共有したかったのだ。そのために歌い、話し、楽器を手に取り、写真を撮り、芝居をした、と書き、最後に伝えたい人に届きますように、と添えた。その時もらった言葉は今見ても涙がでる。
きっと届く。届けてくれてありがとう、と。
そして随分後、忘れた頃に連絡がきた。その場だけの繋がりだと思っていたのに。沢山の話をし、特に音楽の話をした。それからお気に入りの場所を教えてもらったり沢山のことを共有した。
そんなことを思い出した。
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結局のところはどんな形であれ、表さなければ始まらないのだ。どんな手段であっても。
その後ろにある想いの部分が欠けていては、どんな行動も意味を失い何も生まない、と。そう思っている。
言葉がすれ違い、物理的なことのやり取りばかりになるこの状況が、とても悲しいのだ。言葉の奥にある、向こう側を感じたり伝え合うことの価値をもう一度感じたいと思っていたんだな、と。そう思った。
***
音楽を止めてからずっと音楽を避けていた。聴くと悲しいことや悔しいことや自分の酷さを思い出すから。やっと受け入れられると思えるようになった頃には家族ができ、その家族から私の愛する音楽は拒絶されてしまった。
そして、今新しい形の家族へと変わろうとしている中で、また音楽を携えた生活がしたいと思えている。愛する作品から受けたものを大事にして、この先の自分へとつなげていきたいと。
なんで音楽がそんなに怖かったのか、と言えば、それは感情を揺さぶられるからだと思っている。そして表現することの悩みもそれだ。伝えたい事以外の情報がのってしまうことは、誤解を生む。そして誤解は時に傷付け合うのだ。
今、感情と情報のバランスの難しさに日々悩んでいる。
その中で言葉の匙加減一つで伝えたいものに付加される情報が、愛だったり、怒りだったり、苦しみだったり、囚われになるのだ。そしてあまりにも意識の差があると言葉が意味を失う怖さも感じる。
上手くフィルタリングできて互いに気持ちよく交流が持てれば理想だが、そう上手くもいかない。
これからも長く悩んでいくのだろう。
そう思って本を読みたいと思っている。
自分に合った表現手段や方法を模索することは、伝える情報以上の価値を生むことができると思っている。日々、自分の在り方の再考と心地よい交流を図るよう努めたいと願う。
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