書き終えて
卒論を書き終えて、特に何も感じることができなかった。達成感もなければ、書き上げられなかったという悔しさもなく、特に何も感じないのだ。取り組み始めて約二年。といったらあまりに大袈裟だけれど、それでも、向き合い始めてから書き終えるまで、これだけの期間を設けることは初めてである。とは言うものの、二年間の、730日のうちの何日間、卒論のことを考えていたかと問われれば、その日数は一か月にも満たないのだろうと自身の卒論に対する思いの甘さにびっくりする。
テーマは、『人を思うこと』で、孟子という儒家の思想を通じて書かせてもらった。途中、人を思うことのできない人間が、人を思うことについて書いているという事態に苦しめられ、今すぐにでもやめようと手を掛けたのが何日か続いたことを覚えている。
それでも書き終えられたのは、私の卒論が自分だけのものではなくなっていたからで、書き終えるしかなかった、という方が正しいのだと感じている。
卒論の副査を頼み込んだ先生がいるのに、無しにはできない。何より、卒論の構成、朱入れと、あらゆる面から何度も手間をかけて下さった人がいて、そこで、無理でした。なんて言えるわけがないのだ。
自分だけのもので書いていたらやめられていたのに。自分の気持ちに反して、嫌でも書き進めなければいけないというのは、非常に辛かった。書き切ることに精一杯。その他のことなんて考えられなかった。
丁寧に。伝わらない。と何度言われたことか。本当、何度言われたのだろう。今思い返してみると、泣けてくるものだ。一つ、一つ。丁寧に、朱入れして説明して下さるその優しさに、忝いとはこういう時に、口から出てくる言葉なのだと知りました。
こうして割と、甘いけれど思いのある相手だから、手放す時は自分の身に何かしら起こるだろうと早々に考えていたことがいけないのか。なぜ何も感情が湧き出てこないのか。物珍しい自体に困惑する。
けれど、卒論を書くことそれ自体に、いかに自分が夢中になっていたかが覗える良い状態なのだと感じるのだ。でき上がっていく最中、後の評価を気にする間もなく常に悪戦苦闘、もちろん、そこには期待もない。終えてからも、書き上げたものに対する外側の視線を持つことができない。
「やったことがすべて」
少し冷たい言葉に聞こえるのかもしれないが、熱し終えた後の残りから出ている言葉なのだから仕方ない。むしろ、熱のある人だという証拠なのだ。
残念ながら、これは私の言葉ではないけれど、今、この言葉が出てくる人と近しい状態になれているのだとしたら、この感覚を大事に身体の中にとっておこうと思う。
次からは、これが目標。
またね👋
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