会話は続く方が不自然

日常会話において、相手方の言動への理解を示す一つの手段として、似ている事柄を挙げるというものがあるようで、実際に僕もそういったこと(例えば「それって〇〇みたいなこと?」の如き返答)をしたことがあるような気がする。そしてこれには一定の効果があるらしい。

このように、ある事柄に対して似ている事柄を挙げるためには、抽象化や構造化、類型化の能力が必要で、会話以外では、学問や一般生活において様々な出来事や知識を抽象化したり構造化したりする作業も非常に重要であるといえる。例えばあるビルで御手洗いに行きたくなったけれど、今いる階の御手洗いが埋まっていたために他の階の御手洗いを探すとき、「排水管はなるべく短く作った方が得だろうから、今ある位置の真上又は真下に御手洗いがあるはずだ」と予想するためには、物事を構造化して考える必要がある。他にも、少し大袈裟だけれど、明らかに異質な人に会ったとき、それでもその人は人であるから、自分と同じように心の働きがあるだろう、と考えることは、ものごとの抽象化が必要だ(そのように考えることが必要であるかどうかはここでは主題ではない)。
上記のようなことは本来言及するまでもない当たり前のことで、構造化/抽象化/類型化の重要性は至るところで言われている。

ところで先日、以下のようなツイートを目にした。そしてそのツイートは、僕が日頃感じていた違和感をよく表していて、このnoteを書くきっかけにもなった。僕はこのツリーの中で、一つ目のツイートの「たとえば、」以降について特に考える。


前提として、我々の経験は全て個別的である。毎朝食べるプチトマトでさえ、その一粒一粒によって引き起こされる体験が異なっているように(だからこそ、構造化/抽象化/類型化が大切だとも言えるけれど)。
そしてこのツリーは、これまで触れてこなかった何かに触れたとき、それを個別のものとしてそのまま捉える力、もしくは無闇矢鱈に抽象化しない慎重さ/切実さを説いているのだと思う。

冒頭に挙げたようなやり取りを確かにどこかでしたことがあるし、受験勉強の際はむしろ積極的にそのような思考をしていた。しかし、会話におけるこのような思考の推移は、僕には不自然に思われた。
例えば何か素晴らしい映画や小説に出会ったとき、もしくは友人の身の上話を聞いたとき、それらは当然個別的な体験であって、簡単に抽象化/構造化/類型化できるものではない。それでもこういった状況のなか、「〇〇ってことだよね」や「あの漫画に似てた」の如く、抽象化/構造化/類型化してしまうのは、必要以上に会話に毒されてしまっているからだと思う。
会話を盛り上げる、もしくは続ける上で、先程から取り上げている抽象化/構造化/類型化という頭の働きは重要な役割を果たす。しかしそれは瞬発的に行われる思考であり、情報が心/脳の深層に辿り着く以前に完了してしまうことである。
このような会話を、「社会の中の自分」という強烈な自意識の下でしているならまだしも、殆どの人は何となしに会話を上位において、そうして抽象化/構造化/類型化をしている(当然これらが得意でない人もいて、そういう人はより軽微な返答をする)。
この動きの問題点は、そして中島氏がツリーで“嘘”と断じている理由もおそらく、個別的なものを既にある何かに間隙なく置き換える作業をしてしまっていることにある。
抽象化/構造化/類型化は、何度も言及した通り重要な動きである。しかしこれらの動きが瞬間的に発生するとき、個別的な奥深い体験は無味乾燥の立方体のようなものに成り下がる。瞬間的な抽象化/構造化/類型化は、自らの知や心に堅牢な規制をかけることに他ならず、場合によっては他者の体験の矮小化をも引き起こす(体験を抽象化/構造化/類型化して浮かんできた考えを、自らの賢さの証明として呈示する人もいるらしく、残念でならない)。

上記のように考えるとき、何かの体験や考えに関する会話が続いている状況は極めて不自然に感じてしまう。“嘘”が無数に積み上げられていく会話である。
しかして僕は、そういった話題が広がっていくとき、沈黙し、せいぜい言うとすれば「なるほど」くらいで、会話は発生せず、けれど僕は会話が続くことを上位におかないから、そのまま心地よい沈黙を楽しむこととなる。

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