見出し画像

「くらむ式ドロップス」感想

こんばんは。さむいね。コケです。

𝕏のアカウントをフォローしてくださってる方はわかってるよ!て話ですが最近一次創作をゆるく始めています。たくさん絵が描けたらなと思ってます。
ちなみにコラボやお仕事のお話大歓迎です。よろしくお願いします。

じぶんの話はさておき。
友だちのおかゆちゃんがその友だちと先日開催された文学フリマで本を出したので、読みたすぎて送ってもらっちゃいました。快く対応してくれてありがとうおかゆちゃん…!

「くらむ式ドロップス」
くらむしぇる


「逸脱」がテーマの短編集。
前半4本がおかゆちゃんの小説、後半4本がみそちゃんさんのエッセイです。

先ほど読み終えたのですが率直に言うとものすご〜〜〜く良かった!!!ほんとに本出すのはじめてか?信じられん…

良すぎたので感想を書き留めておきました。文章得意ではないので読みにくいけどごめん…!

「薄荷」

初っ端からぶっぱなしてて心臓を握りしめられた。
わたしは薄荷といえばBase Ball Bearの曲みたいにあまく爽やかで、何かが起きそうな予感に包まれるものだけど、これは「何かが起きそうな予感」のいちばんハードな部分を叩きつけている。あまくねんだわ人生。
あとわたしは怖いのが苦手なのですがそういう意味でもこのお話は大成功です。

「オレンジ生活」

夏みかんの酸っぱい匂いと暖かな陽だまりが手にとるように感じられるお話。
じつは「休日最終日の憂鬱さ」の絵を描いた日の翌日か翌々日くらいにわたしはせっかく始めた仕事を辞めてしまいました。仕事に行く準備をしてると涙が止まらなくなって、薬を飲んでも止まらなくて、仕方なく欠勤の連絡を入れる、を繰り返していたから。そんなにつらいことはない、やっていけるぞとこころでは思っていたけれど、そんなに涙が出るとは思いませんでした。
だからいまは無職なんだけど、まさにこれから何をしていこうか考えているところです。そこにこのお話。刺さらないわけがない。
お金は稼がなきゃいけないけどそれはそうとして、とりあえず(という言葉は間に合わせみたいであまり良かないが)絵を描くことを続けようと思いました。それがわたしの夏みかん。

休日最終日の絵


「パインの国」

美しい文体の異世界もの(というジャンルに括ってすまん)に弱いのですが、これはまさにそう。
“ただしく へいわに”眠るのは彼らだけになってしまったなあ…と思うと、「正しさ」と「平和」って何かの犠牲のうえに成り立つものなのかなと考えてしまう。だから手を合わせて「忘れない」ことが弔いになるんだな…。
まじめじゃない感想を言うとドリアンがわんさか実る国、嫌すぎる。でもアンドロイドは匂い感じないはずなのにな。博士はだれか人間がのちにパインの国に来ることを予感してたんだろうか。

「メロンソーダ先生」

わたしがよく考えることがまんまお話になっててびっくりしました。
人生っていろんな歯車がまわって動いてて、じぶんのこころが動かされる大事件があったとしてもそれはじぶん意外にも大事件とは限らないんですよね。関わったほかの誰かにとっては日常の一歩延長した領域かもしれない。だからそんなに意味はないんだって思ってました。
でもそんな達観する必要はなくて、こころが動いたならそれがいちばん大事なことであり、意味がないなんて言うな!だってお前ドキドキしただろ!ということに気づいたのがごく最近。このお話はたぶんそういうことです。(たぶん)

「季の追憶」

わかる…わかりすぎる…。
大学の同期と語らったり、高校の友だちと遊んだり、中学の先生に会いに行ったり…という夢を見て目を醒ますことがしょっちゅうあります。すべて夢のなかのことであり、起きてしばらくすると忘れてしまうけれど、ベースは確かに経験した過去のあまい記憶にある。それらはいまという現実で嘗める季の飴で、そのあまさがこころを癒しているのです。昔を思い出すことに後ろめたさを感じる必要はない!

「愛の告白は腐った苺色」

って書いてたらみそちゃんさんも先生のこと夢に見ててちょっと笑っちゃった。ほんとに夢は天啓だよな…。
世界が愛するひとによって構成されちゃう感覚とてもよくわかるし、そのせいでじぶんの言葉を失って痛手を食うのも、それで愛がひっくり返って憎しみになるのもめ〜〜〜ちゃくちゃわかる。ひとの愛し方がわたしと似てるなみそちゃんさん…。
世界が愛する誰かで構成されてたとしても、それを選んだのは紛れもなくじぶんなのだから、愛する誰かのなりそこないではないのだとじぶんを肯定してあげたくなる。真似してもいいじゃん。それもじぶんなんだから。

「檸檬的な目覚め」

いまはなきセンター試験の倫理・政経はひどい点数だったコケですが、この話で倫理、おもろいかも…になりました。
たしかに完全な正解ってこの世にないんだよな…それを正解だとこころの底から「思い込む」ことで本ものになる。間違えても、じゃあその次にした選択が正解だと思い込む。そうしたらそれがほんとうに正解になれば、間違えたことも正解への糸口だったってことになるし。
大学を休学したときから「ふつう」の道を外れたわたしだけど、ここからどういう判断を重ねるかはこれからの話ってわけだな。善き判断を続けたいです。

「それでも私は林檎を食べる」

高校生のころ、世界のすべてくらいすきだったひとがいました。そのひとに会うためにまいにち登校し、姿をこっそりと眺め、ひとことでも会話ができたら天にも昇る心地でした。
そのひとのSNSが更新されてるのを先日見たら、あまりにも「ふつう」すぎてがっかりしてしまった。あんなにすきだったのに…と思う反面、あれは「盲信」だったのだなとこのお話を読んで確信しました。わたしは何も見えてなかったんです。
この歳になるともう近況もわからない友だちというのも出てくるけど、いままで会ったひとでもこれから会うひとでも、「覚悟」して交流できる存在を見つけたいな。

読んでみて

テーマが「逸脱」の作品ですが、あとがきにも書かれていたように「自分を縛っている『あるべき姿』を映し出す営み」についてかえりみる機会だったと思います。そう考えると逸脱っていつだってしていいんだな。(ギャグぽくなりましたがまじめに言ってるよ)テーマをきいたときは攻めてんな〜て印象だったけどむしろ逆、身近なトピックでした。とてもおもしろかったです!

おかゆちゃん、みそちゃんさん、改めておつかれさまでした!すてきな作品をありがとうございます!
(裏表紙にvol.1 と書いてあるのを見て2があるものだと確信してよろこんでます。続編期待してます)

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?