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3.11のこと

*この記事には東日本大震災の記述が含まれます。読むのがしんどそうだな、と思った方は遠慮なく閉じてください。


2011年3月11日。


人生ではじめて「あ、これ死ぬのかな」と思った日。


コケはそのとき中学生で、掃除を終えて教室に戻るところだった。
同じ掃除場所の友だちとおしゃべりしながら廊下を歩いていたら、近くにいた用務員のおじさんが突然

「地震でねか?!」
と叫んだ。

まさか〜、と思ったのと、
ドン、と来たのが同時だった。

校舎が身震いするみたいな揺れに、慌てて近くの柱にしがみついた。
これまでに経験した地震のうち、いちばんでかかったやつよりはるかに大きな揺れがずーっと続いた。
窓の外では電線も車も大きく揺さぶられていた。
コケがいたのは1階だったので、このまま2階3階が落ちてきて潰れるんじゃないかと思った。


「あ、これ死ぬのかな」と思った。


永遠かと思うくらい長い揺れがおさまって、急いで教室に戻ったら、すぐ荷物を持って体育館に避難することになった。

同じクラスの嫌いだった女の子が号泣していた。
避難訓練のときは必ずひとりはふざけるひとがいたものだけど、だれも笑わない。


体育館に集まり、保護者が迎えにくるまで待機することになった。

余震が何度も起こり、照明が落ちてくることを考えて全校生徒が壁際に寄って固まった。

たぶん友だちと話しながら迎えを待っていたと思うけど、何を話したのか忘れてしまった。
ただ当時いちばん仲の良かった明るく快活な子も「わたしも泣いちゃったよ」と言っていたのはずっと覚えてる。


2時間くらい待ったら親が迎えにきてくれた。
帰り道、信号の灯は停電で消えていた。


家に着いてふだんはきかないラジオをつけると、想像をはるかに超える被害が出ていることを知った。

当時は知らなかったが、引っ越す前に住んでいた家も目の前まで津波がきていたらしい。
漁港では船が流されひっくり返っていたそうだ。


怖いことにそれからの記憶はもう曖昧で、ガスと水道と電気がばらばらに復活したときにそれぞれうれしかったことだけうっすら覚えてる。
あと避難所になっていた学校の体育館に、後日明け渡しが終わって入ったら、なんとも言えない匂いがしていたこと。もう誰もこの匂いを嗅がずに生きてほしいと思ったけど、日本にいる限りそれは無理だとわかってきた。



3.11でいちばん記憶に残っているのは、嫌いな子も仲良しの子も泣いていたこと。

コケは泣かなかったけど、
それは「泣けなかった」のかもしれない。

地震が起きてから今まで「泣けなかった」ひとも、泣けるようになったらいつ泣いても良いと思う。
受け入れ方も時間もそれぞれだから。


大学でいくつか災害に関係する講義をとって、「災害教訓伝承」という言葉があるのを知った。
(災害の被害や記録を後世に伝えていくために、経験から得た学びを語り継ぐこと)

語りを始めるのに早いも遅いもないと思ったので、時間があるいま文字にしておきました。

東日本大震災および令和6年能登半島地震、すべての震災で亡くなられた方に哀悼の意を示すとともに、一刻も早い復興を願っています。

(見出しの写真はふるさとの海です)

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