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過去の栄光には期限がある

「あの子は〇〇高校に行っていて、本当に優秀」
「あの子は◻︎◻︎大学に入学したらしいよ、凄いね」

幼少期から新卒1年目の前半まで、何十回何百回と耳タコになるくらい聞いた。私自身、大学まで山形県の田舎町で過ごしていたため、物心がついた時から周りの大人は、その人の価値を「どの高校・大学を出たか」を基準に判断しているケースが殆どだったと記憶している。

私の地元では、4年制大学への進学を目指す、「自称進学校」のような高校は2校(公立)しかなかったため、仮にそのどちらか2校に行けば「優秀層」として見られるのがデフォルトとなっていた。

子供や孫の進学先が2校のどちらかであれば、大人は周りへの自慢のネタにしたり、周りからチヤホヤされたりする光景も幾度となく見てきた。

そんな光景を日々見てきたからなのか、世間一般から見て(基準はその地域で異なるのかも)頭の良い高校や大学を出ることが、 ”社会の勝ち組”みたいな考え方を刷り込まれていたのも事実だ。

しかし、社会人になってから、私を含め自称進学校を卒業した周りの人たちを見るとどうだろう。あの頃の大人達が言っていた、”社会の勝ち組”なのだろうか。

東京で社会人3年目になった今、私は、どこの高校を出たのか、大学を出たのかという過去の事実と、社会人になってからその人が活躍しているのかどうかは全く関係性がないのではないかと思う。というのも、学生時代にあれだけ学歴がどうのこうのと言われてきたのに、私自身、社会人になってから学歴について聞かれることも、学歴で評価されることも一度もなかったからだ。田舎にいると、社会人になってからも、高校や大学について言及されることがあるが、東京に出てきてからは一度もない。

結局、社会で求められることは過去の栄光ではなく、その時に求められている「結果」が全てであり、その人が過去にどこの高校や大学を出たかなんて、殆ど当てにしていないし、興味がないのではないかと思う。私自身も誰がどの高校や大学を出ているかなんて全く興味がない。

過去の栄光に縋り続け、最新の自分をアップデートしようとしないと、過去の自分しか誇れるものがなく、昔自分より後ろを走っていたであろう人達にどんどん追いつかれ、終いには追い越されてしまうのだと思う。まさに下剋上だ。私はこれに値する光景を大学の時や社会人になってから何回か見てきた。

結局は、社会で評価されるのは、過去の栄光を過去の栄光で終わらせずに日々自分をアップデート出来る人や、過去の栄光がこれまでなくても、これから結果を出すポテンシャルのある人なのではないかと思う。

過去の栄光にはしっかりと期限があって、永久的に使えるものであるとは限らないと思う。過去の自分に酔ってしまった時点で、それは自滅なのだ。

だからこそ、自分より下の世代の子達には、どこの高校や大学を出たかが、社会に出てから大きな影響をきたすわけではないということを伝えたい。受験が人生を大きく変えるとか、そんなこともない。結局、その人次第なので、高校や大学をあてにするではなく、自分をあてにして欲しいと思う。

GW中に田舎に帰ってきて、ふと思い出した過去の話と今の自分が感じることを忘れないようにnoteにしてみました。







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