シュルレアリストではないけれど
感情を表現するのがへたくそだ
つくづく思う。僕は自分の感情に鈍い。その場で感情をうまく表現することができなくて、周りの人たちを困惑させてしまうことが、ままある。
自分の目の前で起きたことに対して、すぐに反応することができない。
プレゼントをもらったとき。心から嬉しいと思っているんだけど、その嬉しさや気持ちの高ぶりを、言葉や表情を使ってうまく表現することができない。だから、プレゼントを贈ってくれた相手を心配させてしまうことがある。
「あんまり嬉しくなかった、、、?」
違うんだ。心から嬉しいと思っているんだ。
ただ、その感情がまだ表に出てきていないだけなんだ。
感情が時間差でやってくる、という感覚。
プレゼントをもらってから5分、10分ほど経つ。すると嬉しいという感情がふつふつと湧き上がってきて、家で一人で飛び上がっていたりする。
感情をうまく表現できないことが原因で周りの人たちを困惑させてしまうのが申し訳なくて、自分の感情を偽ってでも、何かを表現しようとしていた時期がある。
上手くできなくて、結局変な空気を生んでしまったのは言うまでもない。
そうしているうちに、気づいたら一人の時間が好きになっていた。
何を偽る必要も、無理に人気者であろうとする必要も、ない。
本を読んで、映画を見る。
そしてある時、自分は文字を通してなら感情を表現できる、と気づいた。
自分のために書く文章でなら、僕は僕をあるがままに表現することができる。
どんなに気持ちが荒んでいても、感情の起伏が大きくて自分の気持ちに振り回されそうになっても、その時の自分の気持ちを、手が動くままに紙の上に吐き出す。
一息ついたころには気持ちはすっと落ち着いていて、また静かな自分に戻ることができる。
シュルレアリスムの芸術家たちが用いた手法に「écriture automatique」というのがあるらしい。
頭で考えるのではなく、手が動くに任せる。
手が動くに任せてできあがった作品は結果、超現実的な何かになる。
なにも僕もシュルレアリスムの一人だ、と言いたいんじゃない。ただ、僕が何かを書き始めるとき、ほとんどの場合そこに目的や理由はない。
書きたいと思った何かがあったから、とりあえず手を動かしてみる。そうして出来上がったものたちが、一つの文章として並べられていく。
ただ、書いた後には不思議と気持ちが落ち着いていて、つきものが落ちたような感覚が残る。
結局僕が書くのは、自分が自分でいるためなんだろう。
僕はシュルレアリストではないけれど、手が動くに任せてできあがった文章の中には自分がいて、それを振り返ることで、また自分は自分だ、と思うことができる。
僕はまだ何物でもないけれど、こうして書くことを続けているだけで、自分でいることはできるのだから、それだけで十分じゃないか。
それだけで、十分。
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