見出し画像

日和佐浦の”素材”を生かす―空き家が持つ意味と可能性―


はじめに

 ストリートビュー、美波町役場政策推進課の方が撮影してきてくださった動画、これらをもとにオンラインフィールドワークを行ってきた。桜町通りでは多くの空き家や古民家がその良さを生かしつつリノベーションされ、美波町の”資源”・新しく生まれ変わる”素材”となっている様子が伺えた。一方で、日和佐川を挟んで反対側に位置する日和佐浦地区は、桜町通りと同様、昔の面影が残る建物があるのにもかかわらず、そこは時代が止まっていた。
 そこで、日和佐浦にある空き家や古民家も、”素材”にすることができるのではないかという思いが生まれた。 #グループ1

1.徳島県美波町の背景と現状を知ろう

美波町の誕生

 美波町は、平成18年(2006年)に由岐町と日和佐町が合併してできた町である。この時期には、美波町だけでなく日本全国各地で町村が合併され、いわゆる「平成の大合併」が行われた。由岐町と日和佐町の合併もその政策のうちの一つであり、合併ののち美波町として新たに歴史をスタートさせた。

995年の合併特例法に始まり、2005〜06年にかけてピークを迎えた市町村合併の動き。国は、住民発議制度の創設や、合併特例債に代表される財政支援策のほか、中核市や特例市など権限を拡充した都市制度の創設、市や政令指定都市への昇格の際の人口要件緩和などによって、市町村の自主的合併を促してきた。05年の合併三法によって合併特例債に期限が設けられたことで合併が加速した。市町村の総数は、07年3月には1812になる予定であり、95年の3234から大幅に減少したものの、国が目標とする1000程度には届いていない。国は05年の新合併特例法で知事に合併勧告権を付与したが、行使したのは13都県(06年4月現在)にとどまっている。なお、国主導の大合併は3回目である。第1は明治21年、地方制度の確立に際して、約7万の町村が5分の1に減った「明治の大合併」、第2は昭和30年代前半、戦後の政治システム確立期に約1万の市町村が3分の1に減った「昭和の大合併」、そして今回の地方分権改革時の「平成の大合併」である。

美波町地図 合併前

 美波町は由岐町と日和佐町の合併で誕生した町であるが、明治22年(1889年)10月 1日の町村制施行による日和佐村,赤河内村,三岐田村,阿部村の誕生から始まり、多くの町村合併を経てきたという合併までの経過を基礎知識としてさえておきたい。


美波町の人口推移

 令和2年2月末時点での美波町の人口は6,602人で、総面積は140.74平方キロメートルである。ちなみに、神奈川県川崎市の総面積は144.35平方キロメートルで、美波町とは4平方キロメートル、つまり一辺の長さが2㎞の正方形の面積分だけの違いである。その一方で、川崎市の人口は、令和2年4月1日時点で153万5,415人で、その差は152万8813人と一目瞭然である。

 美波町の過疎化が川崎市との比較で分かり、美波町の人口グラフを見ても常に右肩下がりが続いているグラフを想像する人は多いのではないか。
 日本の経済に活気をもたらし、交通においても首都高速道路が開通して利便性を向上させるきっかけとなった昭和39年(1964年)開催の東京オリンピック以降の人口グラフを見てみよう。以下は、左から旧日和佐町,旧由岐町,美波町の人口推移を表したグラフである。

スクリーンショット (114)

 まさに、右肩下がりが続いている。

 では、日本経済の中心部を狙った東京大空襲により大きな打撃を受けた昭和20年(1945年)の第二次世界大戦以前からの人口グラフはどうであろうか。先ほどと同様、左から旧日和佐町,旧由岐町,美波町の人口推移を表したグラフである。

スクリーンショット (115)

 なんと、美波町にも右肩上がりしている時期があったのだ。そのわけを探るべく時代背景と照らし合わせてみよう。

スクリーンショット (120)_LI

 すると、東京大空襲が起きた昭和20年(1945年)第二次世界大戦終結後に、急激な人口増加が起き、続く昭和25年(1950年)の国勢調査では最高値17,535人を記録していることが分かる。

 なぜ、人口増加が生きたのか?

 その答えは、美波町とほぼ同じ総面積であり、都市部に位置している川崎市の人口の移り変わりと比較することで見えてきた。

 川崎市は、昭和の初めに、重工業で働く労働力の需要が高まると同時に人口が増加したが、東京大空襲をはじめとする戦争の影響で、住むところを失い、食糧不足にも見舞われて、多くの人が地方へ疎開し、大幅な人口減少が起きた。その後、一からインフラを整備して復興へと力を入れた川崎市は日本を代表する商業港となり、食・住・職がある都市へと成長したのだ。

 昭和に入ると重化学工業の工場が次々に建設され労働力の需要が高まったことなどから、昭和15 年の国勢調査では 30 万人を超え、前回調査(昭和 10 年)に比べ 57.0%増と、全 20 回行われた国勢調査の中で最も高い増加率を示しました。しかし、第二次世界大戦の勃発により空爆や疎開、兵役などのため人口が減少し、終戦後の昭和 22 年の臨時国勢調査では、人口は 25 万人にまで減少、前回調査(昭和 15 年)に比べ 16.0%減と大幅に減少しました。
 高度経済成長期(昭和 30 年頃~40 年代)には、5 年間で 10 万人を超える勢いで増加していき、昭和 40 年国勢調査では 85 万人となり、政令指定都市移行後の昭和 50 年調査では 100 万人の大台に到達しました。その後もゆるやかに増加を続けていき、平成 2 年の国勢調査ではバブル経済の影響などにより、前回の昭和 60 年国勢調査に比べ 7.8%の増加率を示し、人口は110 万人を超えました。その後、バブル経済が崩壊し景気が低迷する中にありながらも、ゆるやかに増加していきました。

 戦争の被害を受けた人々が疎開した先、それがまさに、美波町などの地域である。つまり、美波町は戦争の被害を回避した(経済の中心地ではなかったためターゲットにされなかった)地域であり、一時期は都市部よりも住みやすい(住める)地域であったのだ。


美波町に残る資源

 戦争の被害を受けなかった美波町。戦争の被害を受けなかったことは、美波町の住人にとって幸いなことだっただろうが、被害を受けなかったことで一からインフラを整備しなおすきっかけもなく、戦前の景色はそのまま、現在に至るまで静かに残っている。

スクリーンショット (122)

スクリーンショット (123)

 一方で、都市部では、復興に向かって人々が動き出し、高度経済成長期やバブル経済を経験し、雇用が次々と生まれ、人々が集まった。
 美波町に残る戦前の建物あるいは景色そのものは、意図して残したものではないが、現在に至っては、貴重な財産であり資源である。都市部を歩いていると古民家が目につくのは、新しい建物の中にポツンと古民家が残っているからではないだろうか。そうした古民家が美波町には立ち並んでいる。むしろ古民家で町が形成されている。一つだけだと目立つものが、多数になると当たり前となり、その価値が薄れてしまうのは何とも悔しい。

 都市部では活用される資源が、美波町にはたくさんあるのだから、そうした貴重な資源を地域資源観光資源として利用し、ただの〈経済発展から取り残された地域〉ではなく、〈新しいものを生み出す”素材”がある地域〉として、その価値を見直すべきであると考える。





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?