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「きれい」を読む

 「きれいは穢い、穢いはきれい。さあ、飛んで行こう、霧のなか、汚れた空をかいくぐり」  シェイクスピア『マクベス』

 「きれい」なものを好んだ俳人がいる。幻の俳人と呼ばれた、鈴木しづ子である。

好きなものは玻璃薔薇雨駅指春雷

 二十音を使って、奔放に好きなものを並べている。どれも美しく、触れたら壊れてしまいそうな繊細さを待つものである。そして、それらを好むしづ子もまた、奔放な中に繊細さを持つ人であった。

さくらはなびら踏まじとおもふ憂きこころ

 心が苦しいときにこそ、桜の花片を踏むまいと思う。満開の桜ほど美しいものはないが、その花片はきれいなままではいてくれない。地面に落ちればたちまち人に踏まれて黒ずみ、穢されていく。だから、せめて自分だけは踏まないでおこうと思ったのであろうか。自分が憂鬱だからこそ桜の花片を思える繊細さ。

春さむし髪に結ひたるリボンの紺
秋の日の髪にそへたる花萎む

 両句とも髪に纏わる句である。「春さむし」とすることで甘い、可愛らしい句で終わらせないところがしづ子らしい。春の艷やかな寒さの中で、ひらひらと揺れる深い紺色のリボンが頭に鮮明に残る。一方、「秋の日の」にはどこか暗い雰囲気が漂う。しかし、縮んでしまった花は無造作に捨てられるのではなく、そっと髪から抜き取られるのだろう。それは彼女の指に、風に、崩れていくように消え失せる。

湯の中に乳房いとしく秋の夜

 秋の夜長、湯の中に身体を沈める時、歳を重ねるごとに刻々と変わっていく身体を眺めてふと物思いにふける。その身体の中でも乳房を詠んだ。ずっと自分で見つめ、向き合ってきた身体であるから愛しい。少女から女性への移り変わりが最も自覚される乳房であるから、なおさら愛しい。

くちびるのかはきに耐ゆる夜ぞ長き

 一人で過ごす夜に、乾く身体と唇を持て余す。言いようのない寂しさやぼんやりとした不安がつのる。じっと夜が過ぎるのを耐えて、待つしかない。

ダンサーになろか凍夜の駅間歩く

 職場で結婚したしづ子であったが、一年余りで婚約破棄、それからはダンスホールでダンサーの職業に就く。この句からはしづ子の実感が感じとれる。

蟻の体にジユツと当てたる煙草の火
煙草の灰ふんわり落とす蟻の上

 小さな蟻に、罪を背負わせるように煙草の火を押しつける。または、気まぐれに灰をはらはらと落とす。煙草をくゆらせるその憂いた眼差しは、虚空を捉えている。

涕けば済むものか春星鋭くひとつ

 泣くことで許してもらう、そんな少女時代はもう過ぎた。少女の頃には潤んだように見えたたくさんの春星が、今はひとつだけ、爛々と輝くばかりである。

異邦人好みの眉や薔薇明かり

 鏡の前に座って、長く細く、すうっと眉を書き、にっこりと笑ってみせる。映画の中のようなワンシーンが思い浮かぶようである。「薔薇明かり」という言葉が匂い立つようなその場を演出する。やがて、しづ子はダンスホールで出会った米兵の黒人軍曹に恋をする。

黒人と踊る手さきやさくら散る

 やわらかな桜吹雪の中で、二人は踊る。指は触れ合い、時折二人の影は重なる。舞台の上かと見紛うほどに美しい光景ではあるが、実際はただ美しいままでは終わらなかった。愛した黒人軍曹が戦争へ派兵されたのである。そして、その人はアメリカで亡くなってしまう。

夏みかん酸つぱしいまさら純潔など
コスモスなどやさしく吹けば死ねないよ

 「いまさら純潔など」と、激しい言葉で書き表す一方、「死ねないよ」と優しい文体でも綴っている。投げやりにも取れるが、しづ子の芯の優しさや柔らかさが最も現れている二句だと思う。善悪や美醜は紙一重だということは自分だけ理解していればいい。大切なことは自分だけが知っているのだから、他人からどう見られても構わない。そんなしづ子の声が聞こえてくるようである。

堕ちてはいけない朽ち葉ばかりの鳳仙花

 赤く咲き誇っていた面影もなく萎びれた鳳仙花を横目に、「堕ちてはいけない」と小さく呟く。朽ち葉ばかりの鳳仙花は見る人によっては穢いものなのかもしれないが、しづ子は激しく美しい詩情をもって句に昇華した。

蘇芳濃しせつないまでに好きになつたいま

 心材から黒みを帯びた赤色の染料が取れる蘇芳。古来から襲の色目として装束に使われてきた植物であり、血液の色として表現されることもあった。しづ子は、蘇芳と重ねて「せつないまでに好きになつたいま」と、どのような思いで詠んだのであろうか。

 句集『指環』を刊行し、その出版記念会に姿を表して以降、しづ子は消息不明となる。出版記念会では、「それでは皆さん、ごきげんよう。そして、さようなら」と言ったのだという。

 きれいは穢い、穢いはきれい。しづ子は、霧のなか、汚れた空をかいくぐり、どこか、彼女の気が休まる場所へと飛んで行くことはできたのだろうか。


(句の引用は句集『春雷』『指環』より)


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