ショートショート「ターミナルケア」

 インターネットの登場というのは、人類史上、産業革命以来の歴史的な出来事なのだという。また、「情報革命」という観点からいえば、グーテンベルクによる印刷技術の発明にも比することができるかもしれない。人類がこれまで蓄積してきた知識と情報を比類ない早さと利便性をもって幅広く提供してくれるのだから。そして、印刷物と異なり、音や映像まで伴い、さまざまな角度から知識と情報を伝えることができることを考えると、インターネット登場以前と以後では、人間の知的レベルも飛躍的に向上するものと考えても不思議ではない。そして時代は今、人工知能という人類がいまだかつて経験したことのない知的異次元へ入ろうとしている…。
「さてと」
 彼はパソコンを起動した。そしてブラウザを立ち上げた。これで彼は今、インターネットという広大無辺のサイバー空間とつながっている。目の前の画面では無限とも思われる知識と情報が時々刻々と絶え間なく更新されている。
「おや」
 彼は閲覧しているサイトのとあるニュース記事をクリックした。
「実は高学歴の芸人ランキングか…」
 彼はランキングを見始めた。そのなかには、彼が日ごろから面白いと思っていたある芸人も含まれている。ああ、テレビではあんなに面白おかしいことを言ってひとを笑わせたり、時にはとぼけたことをして笑われたりしていたけれども、こんなにいい大学を出ているのだから、本当は頭がよかったのだ。このまえ見ていたバラエティ番組のビリビリ椅子の罰ゲームで、あんなに大騒ぎしていたのも、あるいは仕事だから仕方なくやっていたのでは。その場面で大笑いをしていた彼は、なんだか自分がだまされていたような気がしてきた。もやもやした気分で画面をスクロールしていると、同じページにある美少女イラストの描かれたバナー広告に目がいった。
「これこれ」
 そこには、「いますぐ無料ダウンロード+ボーナス」とかかれた宣伝文句が踊っている。画面のなかの美少女は恥ずかしそうな表情で彼を見つめている。彼は迷わずクリックした。頭の中ではすでに、どうやってこの美少女を攻略しようかという作戦を練り始めている。
「放置少女系か…」
 彼は人類による知的財産の山を前にしながら、一体何をやっているのだろうか。それは、ガン患者における緩和ケアに似ている。ガンの治療とは別に、その病気の苦しみを和らげるのための措置のことである。今の彼の実生活はガンに等しい悪性腫瘍をいくつも抱えている。友人も恋人もいない上、現在無職である。彼の将来にあるものといったら、やがて老いゆく親の介護くらいしか残されていないのではないかと思われる。真っ先に彼がすべきなのは、この現実の課題を処理して悪性腫瘍を除去することであるはずなのに、彼は全くそうしようとしない。治療に伴う苦痛が嫌なのである。そして彼の現実世界の苦しみを唯一和らげてくれるのが、インターネットという亜空間なのだ。その避難場所の中で、現実の問題から回避しながら彼は今、疑似恋愛にいそしんでいる。そして、ゲームの中で高揚した彼の恋愛感情は、一歩先の次の段階へ進もうとしていた。
 彼は一旦ゲームをセーブすると、AIによって生成された奇天烈な画像が並ぶサイトの閲覧を始めた。そこでは、彼の空想の中でしかありえなかった光景が、現実世界のものであるかのように繰り広げられている。これこそ、デジタル技術が人類にもたらした恩恵の最たるものではあるまいか。はじめてこれを見た時は、彼はそのような感動に身が震える思いがした。そして彼は今、その数ある画像の中から、これぞという一点を選ぼうとしている。目は獲物を狙う猛禽類のように鋭く、いかにこの決断が重大であるかがうかがわれる。彼がこの日、最も集中力を働かせた瞬間といっても過言ではなかった。
 そして、苦渋の末、今日の一枚を選び終えると、彼はおもむろに座り直し、ターミナルケアの処置にとりかかった。

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