ボブ・ディラン Stuck Inside of Mobile with the Memphis Blues Again

 最近、バズ・ラーマン監督の「エルヴィス」という映画を観た。エンディングのクレジットでこの曲を使えば面白いのにと思った。おまけ映像としてなごやかな撮影風景でも画面の隅に流しながら。なぜなら、わたしはこの曲は「ショービジネスのいかがわしさ」について歌われているものと思っているからだ。ディランは残酷なショービジネスの世界で生きながら埋葬されてしまうような窒息感に苛まれているというのが、この曲のタイトルが意味しているものだとわたしは考えている。
 この曲の題名を訳すと「またメンフィス・ブルースとともにモービルの中で身動きがとれない」という意味になる。このMobileという単語は、モービルという「町」の固有名詞として訳されているのが一般的であるけれども、わたしは、このMobileは「棺桶」のことを指していると思っている。
 <mobile>という単語の原義は「移動できるもの」という意味である。Mが大文字になっているのは、固有名詞だからではなく、Bibleのように「聖なるもの」を指している場合に大文字が使われる用法を援用しているのだろう。何か動いているのものの中で身動きがとれない。そして、どこからか懐かしいメンフィス・ブルースのメロディが聞こえてくる。これは、ディランが棺桶の中で生きたまま埋葬されようとしている様子をいっているのである。
 メンフィス・ブルースは定冠詞がついていることから、W.C.Handyが1909年に発表した楽曲のことのようだ。無冠詞の場合にはメンフィスのブルースという曲のスタイルを指すというのが一般的らしい。W.C.HandyのThe Memphis bluesという曲の大意は、「懐かしい音楽を聞くと、もはや戻ることのできない過去が愛おしく思い出されてやるせなくなる。メンフィスはそんな音楽とともにある場所だ。」というもの。誰もが経験するであろう、音楽のもつ普遍的な側面を述べていて、これがブルースという音楽スタイルのもつ「憂鬱さ」の本質と通底している。そのブルースとともに生きたまま埋葬されようとしている。生きてる時も、死んでからもメンフィス・ブルースとともにある。そして、Mobileは「棺桶」を指すとともに、「流動性のある」という本来の意味から、うつりかわりの激しい「ショービジネスの世界」を示唆しているのだろう。
 第二節ではシェイクスピアが登場する。ノーベル文学賞のスピーチでも、シェイクスピアをショービジネスの実務者としてディラン自身となぞらえている。シェイクスピアの戯曲は、舞台上で演じられるよそいきの筋書きの裏側で、蝟集する蛇のかたまりのように陋劣な感情が渦巻いていて、それが作品に身体性を与えている。このあたりディランと通じるところがあるのをこのころから感じ取っていたのだろうか。
 メンフィス・ブルースという曲をディランが、ここで取り上げたのは、ブルースとして発売された最初の楽曲ということもあるだろうが、当時、落ち目となっていたエルヴィス・プレスリーの出身地ということへの目配せもあるかもしれない。第四節のGrandpaはプレスリーを指しているようにも受け取れるし、第五節はMe tooやジャニーズのことなどを想起させる。
 ちなみに、コーラスの<Oh, Mama, can this really be the end>という部分は、古いギャング映画で主役が殺される時の決まり文句としてよく使われていたそうである。


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