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5/26 "価値"というものについて


日記4日目。いま私は名古屋に向かうバスの中AM5:22である。愛知に入ったところ、1575年の長篠の戦いの際、織田信長の本陣となった場所らしいサービスエリアでの休憩がなかったら、おそらく私は昨日で日記は終わっていただろう。ありがとう織田信長。
戦いの本陣というからには織田信長本人が眺めた景色と同じ景色を私は見たのだと思うと感慨深い。ただの田舎の景色ではあったが、そこに価値を見出すのは自分次第である。
(この記事のトップ写真)

名古屋に向かっている理由は、森道市場というフェスである。蒲郡の海岸にある公園で開かれるフェスで5年前に一度だけ行ったことがあった。土砂降りの大雨だったこと、魚が打ち上げられていたこと、子供が砂浜にドラえもんの絵を上手に描いていたこと、くらいしか思い出せない。今回はもっと多くの思い出を残したい。森道については参加後に詳しく書く(つまりは明日の日記)ので、ここまでにしておきたい。

今日は森道市場に招待(?)してくれた高校からの親友橋本くんとかなぺいみゆちゃんと『アートかビーフンか パイチュウ』に行ってきた。2回目の訪問であるが、コンクリートな感じの空間にアート作品が並び、そのアート達に囲まれながらビーフンや焼売、ちまき等の中華料理を楽しめる。
素晴らしいアートが展示されていて、ほとんどが売約済み、価格は30〜100万円程度のようであった。

思ったのはアートは難しい。ということである。

例えば自分の絵が全く評価されず、悩み苦しんだ挙句、自殺をした後に絵の価値が上がり、高値で取引されるようになることがアートに存在するのは多くの人が知っているだろう。あのゴッホもそうだったらしい。このようなことはアート以外ではあまり聞かない気がする。

最近で言うと、美大の入試試験なども、受験生のポートレートや作品が試験の対象となり、教授たちがそれを評価すると思うが、やはりそこも人それぞれの価値感により、評価も変わってしまうのではないだろうか。
アートは難しい。

著名な人が評価する絵はきっと価値は高くなりやすいだろう。しかし、誰に見せるでもなく描かれて、ただリビングに飾られた世界に1つの絵は価値がないのだろうか。ないわけがない。

お金に換算出来ない価値がそこに存在するはずだ。

少なくとも、私の実家に飾られているピカソのゲルニカ(もちろんレプリカ)は私にとって価値があるし、長男が幼いときに描いた『いぬのはなぢ』という作品もリビングに飾られており、いまだに家族間での会話に一躍かっているし、なによりあの絵がすきである。

サービスエリアで見た田舎の景色も、どこからどう見てもどこにでもあるただの田舎の景色であるが、織田信長が設楽原の戦いで本陣を置いた場所だと知り、どんな戦いだったのかと思いを馳せると、そのどこにでもある田舎の風景に価値を感じる。
私にとってみれば、私に影響を与えるモノ、コト、場所、存在は"価値がある"と言えることが分かった。

結局、価値があるかどうかは、それを受け取る人が価値を見出せるか、価値を感じれる器があるかによるのだと思う。

この世の中はひとつの事実と人の数だけ多くの解釈によって出来ている。
例えばAさんという1人の人間がいたときに、「Aさんはおもしろい」というBさんと「Aさんはつまらない」というCさんがいる。もちろんAさんも人なので、BさんとCさんに見せる顔は少し違うかもしれない。
それでも「Aさんはつまらない」というCさんは、Cさん自身がAさんの魅力を引き出すことができなかった、Aさんを受け入れるだけの器がなかった、ということに過ぎない。

この世の中、"どう解釈するか"で生きる世界が変わるのである。悪いところよりも良いところに目を向けたいし、つまらないと扉を閉じてしまうより、もっと面白いところはないかと扉を開けていく方が良いはずだ。
そのためにも私は自分の扉をまずは開きっぱなしにしていきたい。
この世の中は『自分の内面を映し出す鏡』だと思う。
自分から歩み寄り、多くの扉を開いていきたい。

パイチュウのちまき。言わずもがな美味しかった。

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