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対話と効率

CULTIBASE Schoolでの学びをnoteにでもアウトプットしておこうと思い続けて受講開始から1ヶ月以上経過してしまった

ただでさえ書くことに慣れていないのに、いいものを書こうと思うと一生書かないので、なんだか書いてみようという気持ちが湧いてきたタイミングで勢いで書いてようと思う

今回書く内容は、コースのメインの講義に関するものではなく、コースとコースの合間にある「探求のじかん」での出来事について。
「探求のじかん」は、コースでの学びをより深めていくために受講生同士で探求していくような自由参加の時間のこと

今回の「探求のじかん」では、
「対話は効率が本当に悪いのか?」
「効率の良い対話とは?」
というテーマで複数人で対話をした

最初に、この対話自体の目的というか着地点というかみたいなのを話すことになったのだけどそれがまず良かったな
僕としては、そこで出てきた「対話は大事なんだ、を語れるようになる」「"対話って効率悪いんじゃないか"って話になった時に返せるようなヒントを得る」あたりを目的に対話に参加していた

この対話を通しての現時点での解釈として「対話と効率は切り離して考えた方が良いかもしれない」「効率の観点で議論と同じ土俵に立つのは部が悪いかもしれない」といった形で消化をしていた参加者もいたのだが
僕はむしろ「対話と効率は密接に考えた方が良さそうだ」という感覚が強まっていた
この辺の違いもとても興味深かったので今日自分が感じたことを残しておこうと思った

このテーマで対話しているものの、そういえば「対話は効率が悪い」と誰かが言うような状況に遭遇したことはないなあと思いながら参加していた

仕事は効率よくやるものだという認識をしている人が少なくはなさそうだから、仕事の中で行うからには対話も含め効率良く行うのを良しとするような風潮にはなるのかな
「対話は(議論と比較して)効率が悪い」という意図を含む主張なのだとしたら、議論に関しても効率の良し悪しは問われているんだろうとも思う
そして、対話や議論といったコミュニケーション以外に関しては当たり前のように、未来の効率を良くするために投資をしたり、時間が過ぎるにつれて効率が下がらないように定期的な改善をしていくみたいなことも行われている

そんな中、「対話は効率が悪い」という話になる文脈での対話は、恐らく長めの時間軸のものなのかなという気はする
一方、超短期で価値があって効率の判断がしやすい対話もあるなあとも同時に感じていた
例えば議論を効率良く進めるために、意識的にも無意識的にも対話を行なっているようなケースもよくあるかもなあ

ここまで書いていて思ったが、対話と効率の話は抽象度の話なのかもしれない
長期的な改善に効くような対話は、問題解決の観点で考えると抽象度の高い問題に対して価値があるアプローチの一つになりそうだ
そうなのだとしたら「対話は効率が悪い」という人は、「今は抽象的な話はやめておこうぜ」と伝えてくれているのだろうか

ここまで考えて、「対話は効率が悪い」と言われるとなおさら対話をしたい気持ちが強まるなあ

「対話から何かを生み出す経験を体験する」ということ自体に価値を置いて、「学びのじかん」自体の大きなテーマとしておいていたりもする
対話について語れるようになるためにも実体験としてこれを体験できるのは重要だよねなんて話にもなった
何かを生み出す経験とはなんだろう。とりあえず、noteを生み出したし、書いてみていてさらに考えが深まったりはした

「対話は効率が悪い」という人はそもそも「対話は効率が悪い(ことが多い)」として認識しているのかもしれない
そういう人に対して、効率が悪いことが多い認識にあるものに取り組んでいくような変化を促していくのは難しいのかな
とはいえ仕事においては推す側も推される側もある程度は投資としての判断になるのは仕方ないのかなとも感じた
プロダクト開発の文脈で言うと、例えばDevOpsやデザインへの投資と大差なさそうだ
価値を感じている側がいかに組織に浸透させていくかというだけの話かもしれない

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