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尾形百之助は結局何がしたいの!?

※ゴールデンカムイ 243話(単行本未収録)までのネタバレを含みます


尾形って結局何がしたいの!?

尾形って結局何がしたいんだと思いますか!?

みんな気になりませんか!?

私は気になりました!

1. 考えてみました!

まず、私の考えた尾形の伝えたいことの"軸"を提示させていただきます。

「親の愛情は子どもの育ち方に関係ない」

尾形上等兵の最も言いたいことはこの点なのではないでしょうか。

尾形の過去は断片的に登場しますが、今回はエピソードの登場順ではなく時系列順に、尾形がしたことを振り返ってみたいと思います。

① 母親の殺害

父と本妻との間に男児ができ、愛人である母とその息子・尾形百之助は捨てられる

父の好物あんこう鍋を毎日毎食作り続ける母

殺鼠剤で母を殺害


「少しでも母に対する愛情が残っていれば父上は葬式に来てくれるだろう 母は最後に愛した人に会えるだろう」(103話)

しかし父は来なかった……

自分の両親は愛し合っていない、という結論に幼少期に至った?

② 弟の殺害

「兄様」と自分を呼ぶ屈託のない高潔な弟

「ああ これが両親から祝福されて生まれた子供なのだ……」(103話)

(弟は両親に愛された子ども、自分は愛されなかった子ども)

勇作が(罪悪感なく)人を殺せれば、彼は自分と同じような人間ということになる!(=子どもの育ち方に親の愛情は関係ないということになる)

「勇作殿が殺すのを見てみたい」(165話)
「両親からの愛の有る無しで人間に違いなど生まれない」(243話)

しかし勇作は殺さなかった…

自分が勇作を殺せば、父は自分への愛情を思い出すかもしれない。「祝福された道」が自分にもあったのか、確かめることができる。

「勇作を殺して父上がオレに愛情があったとわかれば しょせん勇作だってオレと同じ人間になりえた道がある…そう思わないか?」(243話)

父の愛情が自分にもあったことがわかれば、自分は勇作と同じ「愛されて育った子ども」ということになる。

「愛されて育った子ども」である自分が平気で人を殺せるのだから、同じく「愛されて育った子ども」である勇作も平気で人を殺せる可能性があることになる(ならないだろ)。

二〇三高地にて、弟を殺害

③ 父の殺害

鶴見中尉が花沢中将(父)を殺したいらしい

最後にいろいろ話したいし(???)、自分が花沢中将殺しを引き受けよう

「お前 第七師団長になるのが目的で花沢閣下殺しを引き受けたの?」「…いや最後にいろいろ話したかったから」(243話)

「愛情のない親が交わって出来る子供は 何かが欠けた人間に育つのですかね?」
「ただひとつ確かめてみたかった 勇作さんの戦死を聞いたとき…父上は俺を想ったのか…無視し続けた妾の息子が急に愛おしくなったのではないかと…」
「祝福された道が俺にもあったのか…」(103話)

訳: 最後にいろいろ話したかったこと=勇作が死にましたが、俺への愛情は生まれましたか?

「貴様の言うとおり何かが欠けた人間 出来損ないの倅じゃ 呪われろ」(103話)

勇作を殺しても愛されなかった……

2. おわかりいただけたでしょうか?!

尾形の報われない挑戦の数々お読みいただけたでしょうか?!

こうして整理してみますと、尾形は「愛されなかったから歪んだ自分」と「愛されたから高潔な弟」を比較して、その対照に苦しんでいるのではないか?と考えることができます。そして起こした行動の全てが、結局その対照を際立たせてしまう結果に終わっているのです。

おそらく尾形にとって「愛されなかった」という経験が無意識でも凄まじいストレスとなっているのではないかと思います。「愛されなかったから歪んだ自分」像がカチカチに固まって彼のアイデンティティの真ん中にあるのではないでしょうか。

その像を破壊するために、尾形上等兵はとにかくあの手この手で「親の愛情は子どもの育ち方に関係ない」という証明を試み続けるしかない、というのが今回の私の結論でございます。


今回の私の説明皆さんご理解いただけましたでしょうか?

しかし皆さんお気づきでしょうか?

こうして「理由もなく簡単に肉親を三人も殺すはずがない」と決めつけて尾形の内心を考察をするような行為が、尾形をいつも傷つけていることを……


「罪悪感? 殺した相手に対する罪悪感ですか? そんなもの…みんなありませんよ そう振る舞っているだけでは? みんな俺と同じはずだ」(165話)
「兄様はけしてそんな人じゃない きっと分かる日が来ます 人を殺して罪悪感を微塵も感じない人間がこの世にいて良いはずがないのです」(165話)



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