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私は銀杏BOYZになれない

カネヨリマサルとの出会いは、インスタで適当にストーリーを流し見していたときに、誰かが使っていた音源を聴いたのが初めてのそれだった気がする。

もともとガールズバンドが好きだけど、私はこの2年くらいはずっと羊文学ばかり聴いていて、それこそ2年くらい前に別れた元恋人のことを忘れないといけないのに、聴くことをやめられなかった。

羊文学はもともと私が見つけて、恋人に「これ、好きそう」とおすすめした。元恋人は私と完全に音楽の趣味が合うというわけではなかったけど、一部はとても合った。
厳密に言うと、合わせようと食わず嫌いを色々やめてみて、色々な音楽を聴いてみるようにした結果、色々な音楽が聴けるようになった。

ライブハウスで拳を上げたり、アンコールで手を叩いたりなんて、車や一人酔った暗い部屋以外で声を出して歌うことを自分ができる人間だなんて思ってもいなかったし、内心はやはりそんな人間じゃないと思っていたかったりもする。

羊文学を聴き続けないといけなかったのは、自分から音楽を取り上げられたくなかったからだ。
これまで私にとって音楽は、誰にも知られたくない私だけのもので、誰かと共有するものなどではなかった。
「お前なんかに分かるもんか」という驕りもあった。

一人で自分だけの音楽と過ごす瞬間が人生で一番の幸せだとは今も本気で思っているし、そう思えることがいつも自分の支えになっている。
自分には帰れるところがあると分かっていることが、生ハム原木理論のそれと同じ感じなのだと思う。
「ダンサー・イン・ザ・ダーク」を好きなのは、どれだけ辛い状況でも他人が一切邪魔できない世界を自由に作れるセルマに憧れがあるからかもしれない。

音楽が人との思い出になることの怖さを数年前に知った。
そのときに聴いていた。その人が好きだった。
その曲の歌詞自体はなんてことないことを歌っていたとしても、記憶が全てを覆ってしまう。
歌詞のないインストでさえ聴けなくなるのだから、きっと多くの機会損失がこれまでにあったんだろうなと思う。

そんな思いをするのはもうウンザリだった。
好きになった音楽を聴けなくなるとは、帰れる場所がなくなること。私から家を奪わないでほしい。
過去とか思い出とか空虚なものにどうしていつも囚われてしまうのかという自分への腹立たしさもあり、羊文学ほか思い出の音楽を聴くのをやめなかった。
思い出なんかに侵食されないように、ただひたすらに聴き続け、心の底から好きになって、自分だけの音楽にできた。
聴かない音楽はあっても、聴けない音楽はほぼなくなったんじゃないかと思う。

と、思っていた。

私は音楽のなかのストーリーや人物に自己投影しないようにしている。
というより、できない。
音楽の中のそれは私とは別物だし、あくまで作品だ。
4,5分の音と詩の連なりに自分の日々を重ね合わせられるとは思わないし、そんなの都合がよすぎる。
ミュージシャンは表現ができる。私は何もできない。
鬱々とした感情をただただ抱え込んで、意味のない吐露を繰り返すだけ。

音楽の世界は私にとっての逃避先でありながら、その世界は眩しすぎる。確固たる自分の世界を持って生きているつもりでいながら、世間体という意識は消し去られずやはりそこにあり続ける。
自分の正直な思いなんか公に晒せないし、何かを相談する相手もいない。

音楽の世界の彼らは違う。
音に載せられた個の経験、感情、思想は大勢の人のもとへ飛んでいく。
音楽ができるって羨ましい。


恋愛の曲ってあまり得意じゃない。
映画でもそう。まぁ進んでは観ない。

音楽でいうと微妙なところで、「恋愛の曲」だから聴かない。といったことはないけど、こう身体が痒くなる感覚になる曲に出会うこともあり、自分にとってはリスキーな音楽体験だと思っている。

まぁ、それでも自分が好きなバンドの曲であれば、それはそうとして「曲」として楽しめるから良いのだけど。


銀杏BOYZもそれだ。
あんなど正直な想いの叫び、ある種自分とは違う世界、違う価値観、違う思想だから聴けるんだと思う。

初めて銀杏BOYZを聴いたのは、バイトをしていたCDショップのみんなで行ったカラオケだった。
みんなとは一回りくらい歳が離れた人が入れた「SKOOL KILL」の熱唱。
若干の場違い感はありながらも、カッコよさを私は感じた。

銀杏BOYZの最初の印象は「下品だなぁ」だった。
本能丸出しの歌詞、音が割れたような轟音、
よだれを垂らしながら浮浪者のような出で立ちで唄う峯田和伸の姿が受け付けられなかったのは、自分が自分に正直じゃなかったからなのだと思う。


過去のトラウマ、負の遺産、黒歴史、
自分をいつまでも暗い渦の中に閉じ込めるそれを、何と表現するのが最も適切なのかが分からない。
過去のものとして位置付けてはいるものの、それが本当の自分であるのだということを嫌でも認識するしかないことがやはり嫌だから「過去」というまくらを置いてしまうんだろうなと思う。

自分で過去としておきながら、そこから常に苛まれ続けていることからも、適切に過去として消化できていない。
それを認識していることが、本当の自分はこれであるということをより一層厳しい事実として確実なものにしていく。

銀杏BOYZを聴けるようになったのは、そんな自分の恥部に置いてある心情が、なぜか違う人がさらけ出して唄っている。と都合のいいように捉え、あくまでこれはその人が唄っていることだから。と、都合よく俯瞰的に捉えられると思ったからだと思う。

本質的には自分のことだと分かっていながら、あくまでそれを自分であると認識するのは拒否している。そこで自分のプライドを保つことでやっと聴ける。
この構図のうえでないと、きっと私は銀杏BOYZを聴けない。
銀杏BOYZの歌詞は、しょうもないプライドで塗り固めた我が身ひとつでは、とてもじゃないけど恥ずかしくて向き合えない。

銀杏BOYZを聴くときは、そんなプライドなんか捨て去った裸の状態で向き合って良いんだと思う一方、真っ裸になることには抵抗がある。


大事なところを隠して銭湯に入るのと同じように、隠したいものは「恥」なんだと思う。

一人で何も考えたくない時間を作りたくなったことから、頻繁にサウナに行くようになった。
もちろん周りは知らない人だらけの環境で、そこではみんな全裸という状況が冷静に考えるとおかしく思えてしまうが、正直そんなことは気にならないのがその場の常識のはず。
ながらも、局部を隠すという作業が完全にないわけではなく、そういった瞬間にいつも妙な矛盾を感じてまたおかしくなってくる。


人が結局隠してしまうものは「恥」なんだろうなと思う。それが「恥」なのかどうかはある程度世間的なジャッジが噛まれていて、他者が決めたそれが勝手に脈々と受け継がれてきたことによって、世間的な恥をさも当たり前のように誰もが認識して持って社会生活を営んでいるんだろう。

恥を晒す時点で、もうそれは恥としてその人の中で捉えることをやめたか、世間が決めた恥に抗う姿勢か、そもそも恥と認識していないかのどれかじゃないだろうか。


自分が好きなミュージシャンにも銀杏BOYZが好きな人が多い。それが私が銀杏BOYZを聴く免罪符にもなっていた。
銀杏BOYZを聴くことを恥だと思っているのかというと決してそうじゃない。人に堂々と銀杏BOYZを聴いていると言えるし、銀杏BOYZが好きとも言える。

私にとって銀杏BOYZは、私以外にとって恥の対象ではないと思っているから堂々と公言できる。

銀杏BOYZにおける恥は、あくまでそれに向き合っている私自身の内部にしか存在しない。

前言を修正すると、銀杏BOYZを「私のことだ」と思ってしまったとき、俯瞰的に見れなくなってしまったとき、銀杏BOYZが作り出した世界が自分の世界と思わずにはいられなくなってしまったとき、銀杏BOYZは私にとって恥になる。

なんでこの人は、私がずっと奥に隠してきた心情を勝手にさらけ出してるの?
Twitterにも書いていないような心の奥のそれをなんで抉り出してきたの?

と、銀杏BOYZへの勝手な怒りや憎しみが湧いたりする。
あまりに自己中心的かつ自意識過剰な聞き手だと思う。

銀杏BOYZは私なんかじゃないし、
私は銀杏BOYZじゃない。

銀杏BOYZに救われた人は多くいるだろう。
私もその一人と言いたいところだけど、
私は銀杏BOYZを聴くと苦しくなる側だ。

銀杏BOYZの中にある愛だとか純粋さを私も持てているのだろうか。
銀杏BOYZじゃなくて、自分に焦点を合わせようとするとどうも拒絶してしまう。
私は私の恥にまだ向き合えないんだと気づく。


些細なことから、銀杏BOYZって私にとって何なんだろうと考えるきっかけがあって色々考えてみた結果がこれでした。
銀杏BOYZの美しさを再認識し、
自分自身の醜さを再認識し、
銀杏BOYZは私にとってまた少し聴きにくいバンドになってしまった。

別に、銀杏BOYZは誰との思い出のバンドでもないのに聴くのが辛くなってしまった。
銀杏BOYZをまた聴くときは、これを書いている今の自分を思い出してしまうんだろう。そしてまた聴けなくなるんだろう。

早く自分に向き合えるようになって、また銀杏BOYZを好きでいれたらいいな。



なんだけど、そんな不安や期待をどっかに追いやってくれたのがカネヨリマサルのこの曲でした。


――歌詞でいうともうひとつ、「君が私を」では<私は銀杏BOYZになれない>って書いてるけど、これは?

ちとせ:その前の歌詞から銀杏BOYZの歌詞をリスペクトとして取り入れてるんですけど……そういう気持ちはあるんですけど、銀杏BOYZのようにすべてをめちゃめちゃに愛したりはできない、そういう気持ちではもういられないっていう感じで作った……んやと思います(笑)。

https://music.fanplus.co.jp/special/20200815838849c1f


銀杏BOYZについて考えるきっかけのひとつにカネヨリマサルもあったんですが、見事に結びついてくれました。
私は銀杏BOYZになれない。
長々と考え込んだ結果、答えはシンプルでした。
これからも不器用に生きていけばそれでいいや。

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