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掌編小説「夜行」

「お姉さん、今から僕と夜行バスに乗りましょう。」

 その夜、道端のベンチに一人座っていたら、知らない男性に声を掛けられた。突然のことにぎょっとしたが、断るべき理由もなかった。
「あなたが連れて行ってくれるの?」
 その人は、青年のようにも老人のようにも見えた。あるいは、私の瞬きするたび変化しているのかもしれなかった。敬語を使うべきかを僅かに逡巡したが、お姉さんと呼びかけたその声は少し高く澄み切っていて、それは私よりも幼い人間の声だと直感的に確信し、思わずタメ口をきいてしまったのだった。
「もちろんです。」
 男性は、私に華奢な白い手を差しのべた。ちょっと気障だと思ったけれど、悪い気はしなかった。
「ありがとう、でも、自分で立つわ。」
 私は手のひらをベンチに押し付け、肘を伸ばして立とうとした。しかし、なんど試みても立てなかった。
「あら、どうしよう。立てなくなっちゃった。」
 馬鹿なことを言っていると自覚しながらも困り果てて男性を見上げると、男性は可笑しそうに微笑んだ。
「素直に僕の手を掴めばいいんです。」
 けれど、全身に力を込めても立てなかったのよ。そう言おうとしてひっこめ、不承不承ながらも素直に手を取った。骨ばった冷たい手だった。男性は私の手をしっかりと掴み、腕を引き上げるようにしながら後ろへ一歩下がった。私の身体は、あっさりと持ち上がった。私は両足で地面を踏みしめ、自立していた。男性は私の手をこともなげにそっと離した。
 私は俯いて赤面した。頬が熱を帯び、それはすぐに耳の先まで伝播した。
「バス停はこの道路をまっすぐ行ったところにあります。案内しますね。」
 男性は微笑み湛えたまま、私を先導してくれた。

 十分ほど夜道を歩いた。車通りも人通りもなかった。案内されたバス停の周りは閑散としていた。田、畦、用水路、小さな鳥居、飴玉を供えられたお地蔵さん、忘れ置かれた透明ビニール傘、バス停であることを示す錆びた朱色の標識、電球の切れかかった街灯、プラスチック製のくすんだ青色の二人掛けの椅子、そのほかには何もなかった。私たちはバスを待つ間、その椅子に掛けた。暫く沈黙が続いた。ちり、りりりと特徴的な音色だけが辺りに響く。それは心地よい音楽だった。マツムシが側で鳴いているらしい。
 聞くべきことはたくさんあるはずだったのに、私には何一つ聞く勇気が無かった。本当にこんな辺鄙な場所に夜行バスが来るの。どうして私を誘い出したの。あなたは誰なの。私をどうしようと思っているの。ふと、左の二の腕に布の擦れる感触がした。服越しに人間の体温を感じた。この椅子は二人で座るにはすこし小さかった。私は居心地悪くなってもぞもぞと座りなおし、
「あの……」
と絞り出すように声を出した。
 男性は私を見た。男性と初めて目が合った。その瞳はきれいな灰色で、私が思わず男性の瞳を見つめれば、男性は私を真っすぐ見つめ返した。その挙動になんの躊躇も恥じらいもなさそうだった。かえって私のほうが恥ずかしくなり、慌てて目を逸らし、夜行バス、どこまで行くの?と聞いてみた。
「どこだろう。本当のところ、僕もよくわかっていないのです。」
「わからないの?」
「そう、行先は運転手のきまぐれだから。朝になったらわかります。」

 さて、夜行バスはほんとうに来た。けれどそれは夜行バスではなさそうだった。いや、実際「NIGHT BUS」と書かれた大型車がバス停に止まったので、夜行バスと表現するほかないのかもしれないが、明らかに違和感があった。私はそれを見ないふりすることに決めた。車内にはほかに乗客がおらず、どこに座るべきかちょっとだけ考えてから、前から5列目の歩道側の窓際の席に座った。男性は私の隣に座った。バスは静かに出発した。

「お姉さん、死のうとしていたでしょう。」
 バスが出発してから2回目の信号待ちの時、男性が呟いた。車内は暗く、男性は私のほうを見なかったので、どんな表情をしているのかよくわからなかった。声色からも、怒っているわけではなさそうだったが、その質問の意図は読めなかった。ただ背筋をしゃんと伸ばして足をしっかり閉じ、手を太ももの上に重ねておいていた。ちょこんという擬態語がぴったりだと思った。
「どうしてわかったの?」
「なんとなく。」
 窓から射す街灯の光が男性の横顔を照らし、その輪郭を浮き上がらせた。端正なプロフィルだと思った。
「自死はいけないことだと思う?」
 私は叱られた子どものようにしょげてみせた。
「いいえ、それは当人の自由だと思います。けれども、自死する人は、ある日突然ほんとうに死んでしまいます。」
「ほんとうに死んでしまう。」
 私は男性の言葉を復唱した。ほんとうに、というのが引っかかったから。
「ほんとうに死んでしまった人を、知っているの?」
 聞いてから、あっ、と思った。不躾な質問だった。男性の顔色をそっとうかがった。私の無神経に失望したかもしれないと思い、胃がきゅっとなった。
「知っています。」
 男性の声色に変化はなかった。感情をあまり表出させないようにする人なのだと思った。
「ごめんなさい。わたし、ひどい質問を。」
 胸が締め付けられて、泣きそうな気持ちになった。
「いいえ、いいんですよ。」
 それから、二人とも沈黙した。

 またしばらくして、男性が呟いた。
「僕のともだちだったんです。」
 その人は、今度は私の目を見つめた。私も見つめ返した。その人の瞳の奥に、深い悲しみがちらついていた。
「気づけませんでした。その日、僕のともだちが久しぶりにメールをくれたのです。ありがとうと書いてあった。件名は空欄で、内容はそれだけでした。僕は、そのメールを送られてきた直後に開きました。けれど不可思議なメールだなと思って、そのままにしてしまったのです。僕は鈍感だった。その人が死んでしまったのは、その次の日でした。」
 堰を切ったように話して、そこで男性は口ごもり、再び黙り込んだ。
 男性に言うべき言葉がなにも見つからなかった。男性は心を亡くしてしまったみたいに、車道側の窓を眺め遣った。
「大切な人がいなくなってしまっても、また朝が来ます。これは希望の比喩ではなくて、単に事実として朝が来るので、仕方なく生活をして生きていくのです。人はほんとうに死んでしまうし、残された人は、どんなにかなしく、苦しくても、死ぬるときまで、強く、生きていかねばなりません。」
 ここまで言ってから、男性ははっとしたように私を見た。
「ごめんなさい。こんな話を聞かせるべきではなかったと思います。」
「いいえ。」
 私にはそれしか言えなかった。自分の口下手を恨んだ。

 バスがトンネルに入った。男性が穏やかに言った。
「今は幸いにも夜です。眠くなってきたでしょう、目を閉じて寝てしまいましょう。僕も少し眠ります。朝が来たら、きっと然るべきところに居るだろうと思いますが、もしそこが然るべきところでなかったとしても、それはそれでいいんです。」
 男性は全身から力を抜いて、背もたれに身体を預け切って目を閉じた。心地よい寝息をたて、その人は本当に寝てしまったようだった。

 気づけば朝だった。車内は光で満ちていて、すべてが明瞭だった。私は久々にぐっすりと眠れたようで、寝覚めはいつになくよかった。バスで寝たにも関わらず、身体は頗る快調だった。
 隣を見ると、男性はたった今起きたみたいな様子で、眠そうに伸びをしていた。男性と目が合った。男性は少し恥じらうように身体を一瞬こわばらせ、それで、それから力を抜いて微笑し、おはようございます、と言った。たいへん可愛らしい仕草だった。

 なんだか堪らなくなって窓のほうを見遣ると、眼前に美しい海が広がっていた。
「お姉さん。あなたはここで降りるべきです。海、好きでしょう。」
 男性は私に言った。
「好きだけれど、あなたは?」
 私は男性に聞いた。
「僕は、まだ遠くへ行きます。」
「どうしても行かなくてはいけないの?」
「そうです。」
 私が寂しそうにするのを察したのか、その人は私に微笑んだ。
「また会いに来ますよ。」

 私はバスを降りた。そのまま海へ行った。靴を脱ぎ、靴下も脱ぎ、裸足で砂浜を駆けた。気持ちの良い秋晴れの朝だった。私には、ここがどこなのか皆目見当つかなかったけれど、それでいいような気がした。当分は、ここで生きてみようと思った。


(おわり)


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