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「カーテンがふくらむ」―2021/10/18

・とりあえず吐き気は収まった。とはいえ無理できないので朝ごはんはパンだけにした。昼ごはんにはうどんを。

・この日記翌日に書いてるんですけど昨日のことで思い出せることがマジでない。これが「「無為」」だ。

・今日の日記はここまでです。



・さすがに短すぎるので好きな短歌について書こうかな。

・短歌の本を読みはするけど作りはしません。ROM専。東北にゆかりのある方を入り口にちょびちょびと歌集を買っています。楽しみ方のスタンスは観劇しているときと同じで、作品そのものの展開を楽しむのはもちろん、想像の余地が残されている部分は全力で補って自分なりに読み解きます。

・いくぜ!


カーテンが外へふくらみ臨月のようで中身は4年3組/岡野大嗣
2014『サイレンと犀』書肆侃侃房,p11
カーテンがふくらむ二次性徴みたい あ 願えば春は永遠なのか/初谷むい
2018『花は泡、そこにいたって会いたいよ』書肆侃侃房,p9


・早速二首出したんですけど。どちらもカーテンのふくらみを捉えています。でも題材は同じなのに着地点が違うのが面白い。



・岡野さんの句は、まずカーテンが外に膨らんでいて、それを臨月の妊婦に例えることで句に母性が宿る感じがする。そして中身は4年3組とくることで、場所が小学校であることが類推でき、その風景がありありと目に浮かぶような構成になっている。

・「4年」というのがうまいと思う。文字数的に「2年」でもいいとは思うがそうすると小中高いずれの可能性も出てきてしまう。しかし、一般的に「4年」があるのは小学校か大学であり、句の流れとクラスがあることから自然と場所が小学校にきまる。

・「臨月」の比喩も、社会に出る準備をしている子どもたちを小学校という建物が中に抱え込んでいる構図を外側からうまくとらえていてすげーとおもう。中高だと思春期真っ盛りでむしろ母性的なものからの逃走/ものへの闘争が始まってしまうからな。舞台が小学校だからこそできたこと。


・初谷さんの句は、カーテンのふくらみを「二次性徴」に例える。この言葉によって自ずと、カーテンが内側に膨らんでいることがわかる。かなり昔からインターネット上で出回っている画像のひとつに、カーテンのふくらみが女性の胸のようになっているものがあったと記憶している。私の同級生も中学生の頃、カーテンのふくらみをそう例えていた。しかし、同じようなカーテンのふくらみを見ているだろうにもかかわらず「二次性徴」と言う言葉はそこまで世俗的でなく、むしろさわやかな印象さえ抱く。思春期や青春といった言葉の近くに「二次性徴」がカテゴライズされるからかもしれない。

・と、ここで間投詞の「あ」が入る。カーテンのふくらみを内側で見た主体が何かに気づいた。


・「願えば春は永遠なのか」


・ひょえ~~~~~。気づいちゃったよ、とんでもないことに......。

・私だけかなと思ってたんですけど、突拍子もないことが急に降りてきてそれをなぜか純粋に信じられる瞬間が高校生の時期にはある。間違いなくある。将来の可能性がまだまだ開かれている時期だからこそ考えられることなんじゃないかな。それをうまくとらえているなと。私だけじゃなかったんだ...と少し安心さえしました。

・私は、カーテンのふくらみを見て「二次性徴」だと感じる感性も含めて、春、始業式から2,3週間たったくらいの頃に高校生が授業を受けている風景を想像しながらこの句をよみました。



・おなじカーテンのふくらみ一つとっても、主体が建物の内側にいるのか、外側にいるのか。主体は子どもなのか、大人なのか。その建物は小学校なのか高校なのか。カーテンのふくらみから何を連想したのか。全く違う切り取り方ができる。さらに、普段生活を送る中では接点を持ち得ない人びとが、短歌ではカーテンのふくらみというそのモチーフ一点で交じり合い得る。この2つに気づかせてくれたという点で、ここで紹介した二首は個人的に好きです。

・短歌有識者が見たら「フン...所詮この程度か......」と思われてそうでなんか恥ずかしいやら怖いやらだな。一個人の日記なので大目に見てください…!

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