見出し画像

批判することの非創造性。

東京オリンピック2020が開催されました。

直前まで開会式関係者の解任などが相次ぎ、国民感情は反感に包まれていた中での開催。

正直私も最初は酷いなと思っていました。でも、よく考えると、ああいった不祥事も日本国内からだけの声だと国民も表面的にしか受け入れられなかったんじゃないかなと思うのです。今回、オリンピックという国際的なイベントを通じて、世界という国境を超えた舞台だからこそ「あ、こうゆうの、本当にヤバイんだね。」と気づくことが出来たんじゃないでしょうか。

つまり、事実として日本にそういった側面があった(あるいは、それが国際的なイベントで推し進められるまでいった経緯があった)ということは私たち国民は認めなければいけない訳です。Twitterでそれをいくら批判したからといって、「いやいや本当の日本は違うよ。」とは言えないような国際的な晴れの舞台なのです。

日本は民主主義です。独裁主義であれば、偉い人たちが、権力がある人たちが決めた、と世界も国民感情に味方してくれたかもしれません。私たちがいくら批判しようが、国際的メディアは日本を日本として報道するだけです。そして私たちはそういった国の国民であるという認識を持たれてしまうのです。

そう考えると、私は、日本のそういった負の部分が世界の日の目に晒されて良かった、と強く思っています。もしこれがある意味国としての失敗なのであれば、失敗を繰り返さないために、そこから学ぶことが出来るからです。

昭和の大衆文化の終焉

そんな想いを抱きながら、同時に微かな期待をもって開会式を見ていたのですが、正直にいうと開会式の内容・クオリティには私もがっかりしました。

座頭市を彷彿とさせる和とタップダンスの融合、ゲーム音楽、アニメの吹き出しスタイルのプラカード、芸能人、コント、仮装大賞など、昭和の大衆文化をただなぞるような内向きの感性で構成された開会式という印象でした。もちろん、オリンピック延期で予算削減やコロナ禍での開催に対する反感・非合意によって本当に目指した形を実現できなかった事情は大いにあったであろうことは容易に想像ができます。

とはいえ、これもまた今の日本の姿を現した一つの事実でしかないことを自覚しなくてはいけないなと思います。こういった大きな舞台での演出が昭和の大衆文化やサブカルに基づいたものであるというのは、日本が現代に通じる文化の育成・醸成に理念を持って投資をしてこなかったからではないでしょうか。

新しい日本文化を作り直す時

ここまでで終わってしまうとただの批判になってしまうかもしれない。でも、私は上にも書いたように、今回の東京オリンピック2020は日本が生まれ変わり、新しいステージに進む貴重なスタート地点だと思っています。

簡単ではないと思いますし、私も新しい日本の文化って何だろうというくらいイメージが湧いていません。でも、日本を変えるとしたら、日本の失敗を現実として受けとめ、それに問題意識を持っている人たちではないのでしょうか。

批判しつづけるのではなく、次の世代に自分はどういった文化を引き継げるのかを考え、行動に起こしていきたい。そして、これを読んでくれた人の中にも、そういった想いが広がっていけば嬉しいなと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?